記録と出版

ブログは出版になりうるだろうかと考えている。

出版というと、日本では「出版」という日本語が本、雑誌、新聞というメディアに深く根ざしているので、インターネット上の個人による発信を「出版」と結びつけては考えにくいところがある。出版という日本語で発想していると、それで収入が確保できて、生活を賄えるかどうかという基準が頭をもたげてしまい、ブログを出版だと堂々と思考し実践する土俵がなかなか出来上がらないのだろう。

他方、米国ではインターネットを個人にとっての強力な道具、武器と認識して、出版であることを強く意識していることがひしひしと感じられる気合いの入ったブログが圧倒的に多い。

思うに、手段や媒体にかかわらず、「出版publishing」の本質は「公にすること」、「公表」ということである。英語ならpublishing一語で繋がった同じ土俵である。そしてそれは基本的に表現とコミュニケーションの二つの要素から成る。

出版(公表)=表現+コミュニケーション

ブログは「記録」から「出版」へと向かう無限の階梯にさまざまに位置しうる。「三上のブログ」は限りなく「日記」、プライベートな「記録」に近いが、どこかで新しい「出版」の可能性、他には還元できない表現とコミュニケーションの可能性を目指してもいる。

ところで、いわゆる日本語の「出版(物)」は畢竟「記録」であると言える。そういう見方が必要だと思っている。どんなに権威づけられた「出版」といえどもである。それらは根本的に当人の、関係者の人生の「記録」、体験の「記録」であることに変わりはない。その意味では、自分の体験を大切に記録している人はみな対等である。

脳の記憶には限界があるから、色々な工夫を凝らし重ねて外部に記録する。それが様々な経緯を辿り種々の意匠をまとって「出版」となる。しかし、元を正せば、すべて「記録」にすぎない。外部記憶装置。

したがって、どんな出版物もその想起や連想の機能の程度によって評価することができる。私はそうしている。映画だろうが、本だろうが、アート作品だろうが、それらが、どんな世界、生の記憶を、どのように再生してくれるのか、そしてそれらは私の記憶をどのくらい深い想起と広い連想によって、いわば撹拌し、書き換えてくれるかが私の出版物に対する普遍的な評価軸である。当たり前か。