2006年12月22日夕、私は吉増剛造さんの手になる二本の映画を観た。映画、でも、それらは映画の常識をことごとく剥ぎ取るような生々しくエロティックでさえある生の具体的な記録であった。身体移動と停止(「まいまいず井戸(Tornade Song)------TakeII」7分05秒)と車の移動と停止(「エッフェル塔(黄昏)(Crepsuscule(Tour Eiffel))」5分29秒)に連動した画面全体がさざ波たつように「軌跡」を曳きつづける映像。画面の内側から聞こえるような、映像と絡み合うようなナレーション(narration)。映像と声を擦り合わせるような初めて聞く種類の音楽。
膨大な記憶へのイメージと音声によるインデックス、野生の引き金。
思い立ち飛ぶように熊野を訪れ記録された「まいまいず井戸」の記憶、思い立ち飛ぶようにパリを訪れ記録された「エッフェル塔」の記憶。そこでは「日本人総体の精神分析(折口信夫)」やロラン・バルトを出し抜くようなフランス(ヨーロッパ?)の無意識の分析さえ試みられていた。しかも、それらは今回の「北辺雑話」の表向きのテーマであった「北と南を深い場所で結ぶ」15年以上にわたる「下降する」想像力の全軌跡への索引にも感じられた。
不思議な音楽、音楽の根源のような音楽については、当夜吉増さんの口からも説明があったが、配布されたprogramの手書き原稿には「武満徹氏を通じて、John Cage氏の『Nearly Stationary』と出逢いました」とある。"Nearly Stationary"。「ほとんど停止」と和訳してしまうと、Staion(駅、停留所)への想像の線が断ち切られてしまう。
十五年前の工藤正廣さんとの対談「北の言語」の最後に、吉増剛造さんが工藤正廣さんに名著『新サハリン紀行』のある箇所で登場する日本語の音にはないロシアの「チ(cz)の音」を尋ねる場面が記録されていることを私は連想していた。吉増剛造さんが引用したその場面とは。
あるとき私は独楽鼠になって地下鉄に乗り、モスクワ郊外の河駅に着いた。ロシア語の音ではレチノイ・ヴァグザール、このチという音を私は愛していた。チ、チ、チ
「北の言語」(『死の舟』所収、119ページ)
日本人の言語意識を針で鋭く刺すようなロシア語の「チ」の音のイメージと流れ渦を巻き氷を張ることもある「河」のイメージと発着と停留という上昇や進歩とは無縁の「駅」のイメージ。15年前に記録されたイメージは時を経て"Nearly Stationary"という反復と軌跡を彷彿とさせる音楽ならぬ音楽へと明確にリンクしていると思った。
2006年12月22日夜、グラヌールの夕べが催された遠友学舍にいながら私は、吉増剛造さんの映画を介して、15年以上前に工藤正廣さんが降り立ち「音の想像力」を深く感受した「モスクワ郊外の河駅」の駅舎にいるような気がしていた。