日常紀行(travelogue)と人生の記録(lifelog)

紀行は、場所の事実について創作や潤色ということはしないのが鉄則です。<場所>つまりどこそこの特定の土地、これにはたましい(精霊です)があるんです。地名の記述は旅人にとって、詩心そのものでしたでしょう。自分の気持ちのすべてを旅人は、そこの土地に注ぎこむ。場所の記憶とはそういう無数無量の人々の思いの集合的エネルギーでしょう。
工藤正廣著『片歌紀行』(未知谷)(70頁)

人はどこに住もうが、本質的に「旅人=詩人」でなければ、その土地を愛することはできない。詩心を失った定住者はたんなる土地所有者になりさがり、縄張り意識と地価意識の虜になり、土地の魂を殺す。平気で地名を変える。詩心、ポエジーとは単に詩を書く人の心のことではない。自分が生きる上で関わる土地の魂、記憶を尊重する心のことだ。それは生活のあらゆる面に現れる。詩心を失った心は土地を殺し、お互いを殺し合う。

実際に歩いてみれば、その土地が、その場所が生きているか死んでいるかは一目瞭然だ。私は毎日歩く事で、写真を撮り続けることで、今住む場所を少なくともここに住む間は無駄な抵抗としりつつ、この場所を私なりに愛そうとしているのだと思う。傷だらけの場所。生傷だらけの土地。血をながしている場所も少なくない。そういうところをちゃんと見る。撮る。

ちゃんと見て、歩いてあげることで、その間だけでも、土地は記憶を語り始めるような気がしている。見えてくるといったほうがいいかもしれない。何の変哲もないアスファルトや鉄柵でさえ、過去を語りはじめる。周囲を伐採されて縮こまった原生林は雄弁だ。電柱や電線も雄弁だ。煙突も、トタン屋根も、現に存在するものすべてが、ちゃんと見てあげればいろいろと語りだす。色んな信号を発している。無惨な現在の姿は、そうではなかった頃の記憶への屈折した索引、手がかりになっている。

単に想像力を称揚するだけでは足りない。実際に歩いてみなければだめだ。「紀行」、"travelogue"、旅の記録。日常を旅にすること。今住む土地を旅人の脚で歩き旅人の眼で見ること。

だから、いわゆる「ライフログ(Lifelog)」も、そこに土地の記憶を感受するポエジーが注ぎ込まれなければ、テクノロジーとパワーにやられっぱなしに終わるだろう。