どんど焼きとごみ処理場

今朝の散歩では、持参したカメラに昨晩充電してあったバッテリーを装填し忘れていた。カメラがなくても、肉眼はカメラがあるかのようにして、シャッターチャンスを狙うようにして、何かを探しているようだ。家人には中毒呼ばわりされる。その通りだ。でも、明らかに、カメラのお陰で、風景を見る眼が変わった。歩き方が変わった。アスファルトだろうが、コンクリートだろうが、土だろうが、雪だろうが、とにかく足裏で「土地」を感じながら歩いている自分に気づく。変な言い方だが、土地の「身体」を感じ取ろうとしているのかもしれない。毎朝撮影する藻岩山に関しては、特に、その裾野にかけての姿、「山の走り根」のボリューム感に眼が強く惹かれていて、まるで眼でそこを歩いている、触れているような感覚さえ生まれていることに少し驚いている。

今日は藻岩神社で「どんど焼き」がある日。午前遅くに、バッテリーを装填したカメラを持っていつもの散歩コースを辿り藻岩神社に向かった。境内には犬を連れて入ってはいけない決まりなので、連れてって、とせがむ風太郎をなだめて留守番させる。

今日の藻岩山はすっきりとして見えた。

眼を凝らすと、ゲレンデのスキーヤーがごま粒が動いているように見える。

このように個人で小型の除雪機を所有する人も最近増えてきた。中にはご近所の家の前までかなり広範囲に除雪している方もいる。特に、独居老人が少なくない一角などでは、そういう方は神様のような存在である。

途中、駒岡ごみ処理工場の煙突が白煙を上げているのがいつも以上に鮮明に見えた。正式には以前書いたように「駒岡清掃工場・粉砕工場」という。「札幌市 - さっぽろ市民便利帳」によれば、札幌市内に4カ所ある清掃工場・粉砕工場の一つである。私が住む川沿から南東へ数キロのやや小高い岡にあるが、住宅街の中からはなかなか姿は見えない。私の散歩のテリトリー内でも、このようにはっきりと煙突が見えるのはわずかに一カ所、とある二軒の家の間の数メートルの範囲でしかない。そこを外れると、もう見えない。

私の中では、石狩河口傍にある北石狩衛生センターとこの駒岡ごみ処理場が、札幌のランドスケープが心に落とす影の象徴のような気がしている。私の心の景観、マインド・スケープから両者が象徴するある種の「傷」を消すことは永遠にできない。

この小さな神社に朝から大勢の人たちが徒歩で、車で駆けつけていた。

私が持参した注連縄や昨年の各種お札が燃えて行く。どんど焼きは本来十五日に行う一種の火祭りだし、火で餅を焼いて食って無病息災を祈る儀式、左義長(さぎちょう)にも由来するものだが、実際には日曜日の今日十四日に繰り上げて行い、餅も焼かない。そのかわり、社務所で甘酒が無料で提供される。といっても、すでに賽銭は投じてある。

思いの籠められた物を焼くという行為には象徴的な意味あいが沢山つまっているものだが、こうやって目の前でそれらが焼かれて煙になって天に昇って行くのをちゃんと見届けることができるのはいいことだと感じる。ところが、生活の大半の物たちは私の手を離れ、私の眼の届かない場所で「ごみ」として埋められたり、燃やされる。私が北石狩衛生センターや駒岡ごみ処理場の煙突から昇る白煙に心が惹かれる理由はその辺りにあるようだ。