数億の目と破壊的性格

地名、とりわけ古来、「巡礼」の土地と結びついた名前のもつ「特別な力(force of spirit)」をめぐる思考において、村松真理さんは、ベンヤミンが「破壊的性格」で描いたひとつの究極の世界観に肉薄している。

地名と土地は本来全然別のものなのだということを痛切に思い知る。(中略)にもかかわらず名前がついていることの意味を。それらの名前はきっかけ一つで分解されて、違うものに組み替わりもするのだろう。定まっていることが、同時に定まっていないことの証左なのだ。
(中略)
言葉で、ピンで留めるように名を定めた瞬間、一気に四方八方に異なる道が散らばって行く。
(中略)
他のどこかに無数の通路でつながり、他のどこをも召喚するからこそ、そこには認知を喚起する特別な名前がついているのだろう。
(中略)
「巡礼」って何なのだ、その土地は特別にスピリチュアルだから、特別に強い力の神さまでもいるということだろうか。(中略)
スピリチュアルであるというのなら、そこから無数の道がすべての方向に通じているはずだ。特別だということはそういうことだ。それだけ蛸の足より、蜘蛛の巣より、分岐する道と扉がたくさんある。絶え間ない運動の上を裸足で、飛び石を渡るように踏みしめていくということなのだ。それはなんも祀らずなにも定着しないが、結び目を作り続けていく運動そのものなのだ。
村松真理「数億の目がひらくとき---「島ノ唄」の中へ」(『三田文学』No.88(冬期号) 79頁)

三田文學 2007年 02月号 [雑誌]

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したがって、「巡礼」を異例な営みとして「特別」視する必要はない、という認識へともう一歩踏み出すことができる。日常の瞬間瞬間が巡礼と化し、今まで盲目だった身体じゅうの「数億の目がひらき」、「分岐する道と扉がたくさんある」ことが見え、「結び目を作り続けていく」「絶え間ない運動の上を裸足で、飛び石を渡るように踏みしめてい」けばいい。

この「絶え間ない運動」はもう70年以上前にベンヤミンが書いた「既成のものを瓦礫にかえ」る「破壊的性格」につながる。

破壊的性格は持続を認めない。だからこそ、逆に、いたるところに道が見えるのである。他のひとびとが壁にぶつかったり、山塊に出くわしたりするところでも、破壊的性格は道をみつける。しかしまた、いたるところに道が見えるからこそ、逆に、いたるところで道からはずれていかねばならなくなる。しかし、そのさいかならずしも乱暴な行動をとるとはかぎらない。ときにはきわめて洗練された行動をとることもある。いたるところに道が見える以上、破壊的性格じたいは、つねに岐路に立っている。いかなる瞬間といえども、つぎの瞬間がどうなるかわからないのだ。破壊的性格は、既成のものを瓦礫にかえてしまう。しかし、それは瓦礫そのもののためではない。その瓦礫のなかをぬう道のためなのである。

破壊的性格が生きているのは、この人生が生きるにあたいするという感情からではない。自殺はやりがいのないことだという感情からである。
ヴァルター・ベンヤミン「破壊的性格」

パサージュ論 (岩波現代文庫)

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「路地」のような「瓦礫のなかをぬう道」を「裸足で、飛び石を渡るように踏みしめてい」けばいい。