沈黙の実験 Silence, pleaese !:365Films by Jonas Mekas

ジョナス・メカスによる365日映画、70日目。


Day 70: Jonas Mekas
Sunday March. 11th, 2007
4 min.

a piece about
silence and sound --

沈黙と響き
についての一篇

冒頭、"Silence, pleaese !"と手書き文字のテロップが入る。同じ映像を前半は音無しsilenceで、後半は音付きsoundで見せる。右手が激しくテーブルを叩き、メカスの顔が大写しになり、右手の人差し指がしっかりと閉じた唇に当てられ、右手の人差し指が右耳を何度も指す。ほぼ同じ動作が繰り返される。前半のサイレントでは「音」は想像上のもので、記憶から引き出された音のイメージを追体験させられる。私は瞬時にテーブルの材質や叩く手の動きの激しさなどから「音を計算する」。いわば、「音を見る」。そのとき、過去の様々な体験の音的記憶が喚び出される。脳が活発に活動しているのを感じる。

しかし、後半、音が出る、そう、まさしく「出る」と、想像上の音とは全く違う音が鼓膜を震わす。物理的衝撃を覚える。暴力のような刺激だ。メカスの右手は「これでもか!」とテーブルを叩く。脳は完全に受け身にその衝撃を受ける。

実生活では、私は音を選択的に聞いている。聞きたくない音には無意識にフィルターをかけている。またカクテルパーティー効果もある。聞きたい音を前景化し、後はノイズとして背景化する。つまり、聞きたくない音は聞かないようにするコントロールがある程度可能である。他方、映画やテレビでは通常は、敢えてサウンドのボリュームをゼロにしないかぎり、音が容赦なく鼓膜を震わせる。私は聞かざるをない状況に置かれる。だから、映像に下手につけられたサウンドは不必要な暴力にもなる。逆に、サウンドを消すと見るに堪えない映像もたくさんある。

話し声や歌声、人間や機械がたてる物音、楽器の演奏音、それらが本当に「音楽」といえる瞬間はどんなときだろうか、と考える。動物の鳴き声や風にそよぐ植物のざわめきや風そのものの音や海や川や雨などの水の音など、自然の音は、いつも「音楽」に満ちていると言えるだろうか。


音が聞こえないとき、目は耳になろうとする。いつもとは違う目になって世界を見るようになる。舐めるように見る。触れるように見る。1月9日に登場した盲目の写真家ユジャン・バフチャルが「手で世界を見」、「夢の鏡」としての写真を撮るように、あるいは聾唖者が全身で「音を聞き」、「夢の鏡」としての言葉を話すように、私は沈黙した映像に「夢の鏡」としての音楽を聴く。音楽家はそんな沈黙silenceに匹敵するサウンドに近付こうとしているのだろうか。

1月22日に"My music is not coming"と涙を流して訴えていたメカスを連想する。