行分けの秘密Ryoko SEKIGUCHI

昨年十月から五ヶ月以上ずっと読み続けている本がある。関口涼子吉増剛造『機------ともに震える言葉』(書肆山田)である。読み続けている、と言っても、私の場合はいつも傍に置き、ふと気が向いたときに開いたり、外出するときには鞄に入れて持ち歩き、色んな場所で拾い読みすることを続けているのが実情である。

世代はかけ離れているが同じように前衛的な二人の詩人による公開往復書簡集ということもあって、ひとつひとつの「手紙」が、詩人であるとはどういうことか、詩とは何か、という自己批評的でもあり、言語に関わる根源的でもある問いを掘りさげようとするある種の過酷さを湛えている。でも、だから、生きることと言葉を話す、聞く、書く、読むこととの関わりにおける普遍的な諸問題が次々と提起される。

そんな問題のなかで、私もこうして毎日性懲りもなく書き続けながら感じている、「言葉の身体性」という言い方が非常なリアリティを持つ地平で、関口さんが提起している問題がある。それは、詩の行分けの秘密とでも呼びたい問題で、実はそれは誰しも文字を綴る際にはいつでも経験しているはずの秘密でもある。

「詩の出口」がひとつの死なのだとしたら、行の終わりはそのひとつひとつが小さな死への不安のようなものです。違う点は、次の行に言葉が続いて行く時には、危険を賭した跳躍を成し遂げ、言葉が新たな生へとあざやかにつながれるのを見ることが出来るということです。アクロバット的な跳躍を繰り返して、死の危険をその都度に遠ざける、そのような言葉を生きることが出来る、それが私にとっては行分けという存在の意義であり、それを自らの身体とする詩の意義でした。勿論、跳躍のあり方は決して一様ではありません。詩人により、作品により、また内容との関わりでその都度足取りを変えて行くものであり、詩が言葉を次の行にどのように続けて行くかによって詩の生のあり方も変わって来るのです。

(中略)

通常の文章では、ある行と次の行の間が続いて行く時、行換えが存在しないものと見なしています。だからこそ私たちは散文や小説を一行ごといちいち立ち止まることなく読むことが出来るのですが、ないとされている行換えを一旦あると意識してしまうと、いままでは限界としては感じられなかったものが、たちまち枷として見えて来るのだろうと思います。それは、生の限界まで持ちこたえようとするような独特な言葉のありよう、特有な生に対して詩人が応えようとした時に共通に現れる感覚なのだろうと思います。

他方、散文詩は、行分けこそありませんが、言葉に別の形の生を生きさせる様式です。行分けの危険から言葉を庇護したような顔をして、もっと過酷な生を隠していたり、外見からすぐに詩とわかる形ではありませんが、散文形式の内部に敢えて入って行って、その中で言葉に生き生きとした身体がどのようにして可能かを探るという試みがそこにはあります。散文詩が詩であるかどうかというのは、おそらくその見かけの形式ではなく、そこに固有な言葉の生が賭けられているかどうかで判断されるものだろうと思います。
(100-101頁)

関口さんの念頭にある「詩人」は吉増剛造さんであるが、吉増さんの行換えに対する特異な感覚について彼女は次のように報告している。

例えば詩は、一息が極端に長く続く生を要求することもあります。吉増さんは以前、一行が終わってしまうのが惜しくて、ずっとその行を続けて行きたくて、原稿用紙の下までずっと書いて行ってしまうことがあるとおっしゃっていました。(中略)そして下まで書いて行って、端の方まで書いてしまった時、下までたまったその勢いで次の行へ飛び上がるのだともおっしゃっていました。
(100-101頁)

関口さんは、言葉もまた身体を持った生を生きることを再確認しながら、詩という言葉の身体の生と死の境界を歩き続けるという過酷な生=詩人を引き受けつつ、単に見かけ上の形式的な改行や行換えではなく、また見かけ上の行分けでもなく、言葉を繋ぎ、運ぶ「勢い」(「息追い」?)の見えない深い形式に触れようとしている。その言わば「リズム」こそが、関口さんが「幽霊の言語」*1と名指したところの、私の考えでは「純粋言語」であるのかもしれない。つまり、そのリズムで、人は「それ」を「言語」だと知るようなリズム。(つづく)

*1:2006-10-23「幽霊って何語を話すんでしょうね:奄美自由大学体験記16」http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20061023/1161604538参照。