札幌、晴れ。やや蒸し暑い。
藻岩山遠景。
藻岩山近景。水蒸気に霞んでいた。
バラ。
こんなシャクヤク(芍薬, Paeonia lactiflora)もある。
最近お気に入りの空き地の隅っこにこんな樹が一本だけ育っている。まだ若い。低い所から枝を伸ばし、大きな葉をたくさん出し、全体的にこんもりとした形が可愛いらしい。
近寄ってみると、こんな実をつけていた。未同定。
草の小さな花。ラッパのように開いた外側は萼に見える。その内部に斑のある花弁が見える。未同定。
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ふと、毎日のつたない同定作業の意味を反省することがある。一応目標とされるのは種名の特定だが、種の名前って、私が見た、出会った個体の名前ではないという当たり前のことに改めてはっきりと気づいた。もちろん、再三書いたように、同定作業は一方では私の体験を一般的な知識の体系につなげる重要な意味をもつ。しかし、他方で、それは私の掛け替えのない体験の質を忘れてしまうことになりかねない気がちょっとする。例えば、「バラ」を見たことを記録した。しかし「バラ」は、私が見た「それ」の「本当の名前」ではない。それは種という集合の名前にすぎない。私がたんにヒトではないように、私が今朝出会った「それ」もほんとうはただのバラではないはずだ。何を言いたいかというと、今朝の私のバラとの出会いの体験の核をきちんと記録しようとすれば、例えば、バラの「バラ子」とでも命名する必要があるということである。その個体に固有の名前を密かにでもつけるか、あるいは固有名に匹敵するような記述(詩人が書くような)をしなければ、私は私の体験の核を取り逃がすことになる。ウンベルト・エーコが「薔薇の名前」という変なタイトルを考えついた訳が少し分かったような気がする。筋違いかな?もちろん、だからといって、同定作業を止めるつもりはない。私が言わば無限の対象のなかから「バラ」などとしてピックアップ、掬い上げた対象は、そのことで、晴れて知識の世界にその存在をデビューさせることにもなるわけだから。それにしても、人は動物、ペットには固有の名前をつけるくせに、植物には固有の名前をつけることがないのはどうしてだろうか?それとも私が知らないだけで、植物好きな人は皆、庭や鉢の植物に、「バラ子」とか「ユリ子」とかつけて、毎日呼びかけているのだろうか。