Nam June Paik as a Stationary Nomad, again:365Films by Jonas Mekas

ジョナス・メカスによる365日映画、7月、208日目。


Day208 : Jonas Mekas
Friday July 27th, 2007
6 min.

Nam June Paik
B'way @ Spring
some five years
ago ---

5年ほど前
ブロードウェイ
スプリング・ストリートの角で
ナム・ジュン・パイクと。

4月26日ナム・ジュン・パイク(1932-2006)を追悼する趣旨のフィルムの冒頭に最晩年のかなり衰弱したパイクの姿があった。後半のグッゲンハイム美術館におけるオノ・ヨーコによるシャーマニック風の派手な演出の追悼よりも、生前のパイクにしっかりと寄り添ったカメラ=メカスの映像のほうがずっと「追悼」らしかった。

今日のフィルムでは、ブロードウェイと交差するスプリング・ストリートの歩道に夫人の久保田成子Shigeko Kubota, 1937)と黒人の若い女性の看護師に付き添われて車椅子に座ったままのパイクがいる。5年ほど前だというから、2002年頃だ。1996年に脳梗塞で倒れてからは車椅子生活を余儀なくされたパイクの表情はやや固く、言葉も少し不自由だ。有名な「I Love NY」のロゴがプリントされたよれよれの白いTシャツを着ているところがカワイイ。

パイクはカフェの窓際の席から通りを行く人々、特に若い女性を眺めるのが好きだったという。夫人の証言によれば、96年に倒れてから毎冬フロリダ州のマイアミの海辺で暮らした時にも、彼女が嫉妬するほど、相変わらず若くてきれいな女性と一緒にいることが好きだったという。今日のビデオは、こころなしか、メカスがパイクの視線の代わりに、道行く若い女性たちを多く撮影しているような気がする。

ジョン・ケージやマチューナスなど、今は亡き畏友たちの思い出話をしていると、流暢な英語を話す韓国系のアメリカ人と思しき若者が近づいてきて、パイクに半ズボンに直接サインをしてくれるよう頼んだ。なぜかその若者は黒のマジックペンを持っていた。パイクはハングルと英語の混じったサインをすらすらと書く。ビジターかい?というメカスの質問に、この近くに住んでいると答える若者。看護師がこの人は有名な映像作家のジョナス・メカスよ、と紹介すると、ナイス ミーチュー サー、と言ってメカスに握手を求める。それから若者は改めて、パイクに調子はどうなのか尋ねる。アイム オーケー、とパイクは答える。

4月26日にも触れたように、ナム・ジュン・パイクの活動の意義等については、パイクが亡くなった2006年1月29日から5日後に書かれた松岡正剛氏による追悼文が非常に参考になる。その中でも特にパイクは80年代にすでにグーグルの登場を予測していたと読めるくだりは非常に示唆的である。

そうなると、問題はどのように情報を輸送するかではなくて、どのように必要な情報をリトリーヴァルするかということが重要になる。ところが情報の伝達速度をどんどん上げていく技術には、それを検索する技術が伴っていなかった。そのため、どんな情報も記録され、デリートしないかぎりはどこかで貯まっていくだけになった。どこへでも高速に届く情報は、こうしてリトリーヴァルなき貯蔵庫をゴミ溜めのように肥やすだけになったのだ。
 これでは、まずい。いったい何をひっくりかえせばいいのだろうか。
(中略)
情報をリトリーヴァル・メディアの仕組みと入れ子にするべきなのである。しかし、このことの意味はまだ十分に理解されているとはいいがたい。
 たとえば、美術家はそれが写真になり電子化されることを計算して制作をしているだろうか。それが情報の貯蔵庫の奥にしまわれて、取り出しにくくなっていることを計算に入れているだろうか。まだ、大半の美術家はそこまでのことを考えてはいない。われわれは馬の失墜とともにアートを情報の海から救えなくしてしまったのだ。

 そこで、新たに「定住遊牧民」(ステーショナリーノマド)という発想が必要になってくる。われわれは電子情報ネットワークの前で定住しながらも、遊牧しなければならなくなったのだ。
 アートとコミュニケーションをリトリーヴァルされるメディアのなかに位置づけ、リバース・エンジニアリングする方法によって生み出さなければならなくなったのだ。いいかえれば、もう一度、極小の馬に乗って、そのネットワークの中を駆けめぐれるようにしなければならなくなったのだ。
 そうだとすれば、これから最も可能性のある地域の定住遊牧民が21世紀の救世主になるはずである。それはひとつには、電子情報ネットワークのリトリーヴァル・システムを構築した者だろう。パイクさんはその可能性をもったアーティストにもっと呼びかけたいと言う。

松岡氏が「リトリーヴァル」と繰り返しているのは「検索」のことだ。これが書かれた2006年2月3日には、まだ『ウェブ進化論』(第一刷発行は2月10日)は出ていなかった。その時点では私もGoogleが「電子情報ネットワークのリトリーヴァル・システムを構築した者」と認識はしていなかった。

パイクは「万有引力を否定することろに成立する」ヴィデオ・アートを創始した。そして次代のアーティストは物質世界の法則すべてを否定するところに成立する「電子情報ネットワーク」、つまりインターネットを舞台に遊牧民のように駆け巡ることになるはずだと予測したのだった。しかも、増え続ける情報、記憶や記録が生かされるための想起や検索の重要性に早くから気づいてもいたのだった。

検索技術の重要性に気づいて、インターネットを駆け巡る若者たちは自分たちのことをアーティストだとは認識していないだろう。逆にアーティストだと自認している者の多くは、パイクが見抜いたインターネットの可能性を知らない。しかし、身体も美術も彫刻も建築も都市も地球もが情報の塊にすぎないとすれば、その塊を高速で行き交う情報網に置き換えつつあるインターネット、「もうひとつの地球」(梅田望夫)に昼夜向き合う者こそは、最先端の潜在的アーティストに他ならないと言えるだろう。

インターネット誕生前夜からのナム・ジュン・パイクの主な活動をピックアップしてみると、

1993年東京、ワタリウム美術館で個展『パイク地球論』
1994年フロリダのフォートローダーデール美術館で『エレクトロニック・スーパー・ハイウェイ展』
1995年『光州ビエンナーレ』でシンシア・グッドマンと共同で『インフォアート'95展』
1996年コペンハーゲン、スタテンズ美術館で『ビデオ・スカルプチャー、エレクトロニック・アンダーカレンツ展』

という風に、まさにTV、ヴィデオからインターネットへのパラダイム転換を見てとることができる。そして脳梗塞で倒れた1996年以降しばらくの沈黙を経て、

2004年ビデオテープ作品『グローバル・グルーブ2004』『ワン・キャンドル』

で彼の生前の活動は締めくくられる。一方に新たな「地球」観、もう一方に「一本の蝋燭」。蝋燭は焔としての生命を象徴するものだろう。乱暴に解釈するなら、もうひとつの地球に生命の焔を灯そうとしていた矢先に彼はこの地球上から本当にもうひとつの地球に逝ってしまったのだった。パイク以降のアーティストの活動はインターネットに本物の焔を灯す、本物の生命を宿らせることになるだろう。でも、それが具体的にはどんなことなのかは、まだ見えない。