ジョナス・メカスによる365日映画、9月24日、267日目。
Day 267: Jonas Mekas
Monday, September 24th, 2007
2:56 min.
Final segment
on Maxi, the cat of
Anthology --
アンソロジーの猫、マキシ
に関するシーン集、
最終回…
マキシが死んだ。「昨日」だという。イースト・リバーに向かって、追悼の文章がタイプされた紙を掲げた映像が映る。「皆へ。すべての人に知らせたかった。アンソロジーで最も愛された同僚、マキシが昨日死んだ。17年半の長い生涯だった。……」
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冒頭、アンソロジーのスタッフ数人をつかまえて、アンソロジーの「奴隷」と紹介し、マキシを「主人」と紹介するちょっと古い映像。
古きニューヨークの最後のダイブ・バーとして有名な、今にもつぶれそうな、どこかなげやりな風情が好ましいマーズ・バー(Mars bar)で、オーグスト・バルカリス他、数人のスタッフとビールで乾杯するちょっと古い映像。
アンソロジーは研究所のようなものではなくて、色んな違ったものが生長する農場みたいなものなんだ、とカメラに向かって語るメカスの比較的最近の映像。「私は農夫で、ここは大きな農場。」
そしてイースト・リバーの映像。
デスクの上で頭と背中に手作りの花びらを載せているマキシの映像。おそらく最後の誕生日のときの映像だろう。
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現実の世界ではマキシは死んだ。映像の中ではマキシは生きている。映像はマキシの生涯の断片的な記録である。それを見ることは生前のマキシの記憶を想起させる。それはマキシとともに生きたメカスの生涯の記憶の想起でもある。でも、一体何のために想起する必要があるのか。喪失の痛みを少しでも和らげるためではない。むしろ喪失の痛みを決して忘れないようにするためである。失われたものの大切さを忘れないように、あえて心に一生消えない深い傷をつけるためである。傷とは記録の別名である。他人や生き物と付き合う、引き受ける、要するに愛するということは、そんな深い傷を自ら負う覚悟をするということでもある。愛せば、愛すほど、深くなる傷を。メカスの映像はいつもそんな傷だらけの愛の映像だが、また一本深い傷が入る。