その後の「タクソノミー/フォークソノミー問題」

自分の中では解消したと思っている「タクソノミー/フォークソノミー問題」に関して、「その後」どういう議論の展開が見られるかと不図思って、"Folksonomy"でブログ検索してみたら、私にとっては象徴的なタイトルのブログ記事と講話がヒットした。

「タグ対カテゴリー」と「すべてはその他」である。前者はネットのユーザにとっては伝統的な分類体系(タクソノミー)に基づいたカテゴリーなんかより、ユーザが記事や写真やビデオに勝手につけるタグの方が別のユーザが目当のものを「探す」際にずっと頼りになることは火を見るより明らかだよねと論じている。後者のグーグルの研究者のお話は個人的に聞くに堪えないしゃべりのせいで最後まで聞き通せなかったが、そのタイトルがすべてを物語っているように、従来の権威づけられた分類体系からみれば「その他」に相当する情報群こそが何らかの仕方で秩序づけられる必要があり、それには少なくとも現在のところ一般ユーザー、素人の勝手なタグ付けの総体としてのフォークソノミーしか頼れるものはなく、それを活かすのがグーグルの検索エンジンであるという要旨であると推察する。

それにしても、前者の書き手であるサザーランド氏がいみじくも語っているように、フォークソノミーは「言葉」である。タクソノミーは専門家のお墨付きの範疇である。が、範疇は言葉で表現されるわけだし、言葉とは畢竟世界の分類の指標である。だとすれば、「タクソノミー/フォークソノミー問題」の根本は世界を分類する観点において相対化されざるをないはずである。その複数ありうる観点の間の優劣を決めるのは結局のところ「慣習」にすぎないだろう、と極論してみて、さあ、どうだろう?

まだ手元に届いていない『サーチアーキテクチャ 「さがす」の情報科学』(ソフトバンククリエイティブ)のなかで、みずほ情報総研の吉川日出行さんたちはそのあたりについてどう論じているか、楽しみだ。