無理に鼻歌なんか歌いながら

朝日新聞朝刊の小さなコラムが目に留まった。脳梗塞で声を失い、右半身不随となった免疫学者の多田富雄さんが、人間的絆が断ち切られ、弱者切り捨て傾向(小泉政権下で拍車がかかった)がますます強まっている日本社会の現状に警鐘を鳴らしていた。それはある意味では、小泉劇場をはじめ、軽薄な音頭に乗った多くの国民の総意に外ならなかったのだと考えざるをえないのは悲しいことだ。知性においては悲観主義、しかし意思においては楽観主義、を貫くのはなかなか大変なことだ。

今朝の散歩の後半、トウモロコシ畑を眺めながら考えた。エゾノコリンゴ剪定ショックは、例えば一夜明けてみたら、このトウモロコシたちの大半がなぎ倒されるか、根こそぎにされたのを目撃したときのショックに近いだろう、と。タンポポ公園のエゾノコリンゴの悲劇、それはいうまでもなく人間の側の悲劇に外ならないのだが、いつまでも悲しい出来事に間近に寄り添って、悲劇に浸っているわけにはいかない。

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風に揺れる幼いトウモロコシたちの美しい姿を瞳の奥に焼き付けてから、私は独り合点かもしれない「美しい」ものを見逃さないように、記憶、記録に留めるようにして、散歩を続けた。怒りに近い感情も芽生え始めて、萎んで消えかけた楽観主義の風船に空気を吹き込むように、無理に鼻歌なんか歌いながら。

ヤマグワ(山桑, Mulberry, Morus bombycis Koidz.)の実がなっていた。ミニマ・グラシア(ちっぽけな恩寵)は至るところにある。