本という神話の解体は始まっているのか

書かれたものの歴史は、神聖なるテクストから世俗的な本へ、そして今再びテクストへ、ただし世俗的なウェブ上の(ハイパー)テクストへ移行しつつある、と言ってみる。



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ジェラール・ジュネットは網羅的ではないことを断りつつ、神聖なるテクストから世俗的な本への道のりを詳細に調べ上げ、テクストが本に成るために経てきた数多くのいわば「通過儀礼」の痕跡を明らかにした。ジュネットはそれらを「敷居 Seuils」として表象した。本に接するとき、私たちは知らず知らずのうちに数多くの敷居を跨ぐというわけだ。

そんな敷居のなかで最も高い敷居が「ページ」なのだと私は理解している。それは私たちの脳のなかにさえ根深く存在する敷居になっているのではないかと直観する。だから、例えば鈴木一誌は『ページネーション・マニュアル』や『ページと力』を書くに至ったのだと。

さて、今日私たちはそのような敷居を取っ払って、本という「形」からテクストをいわば解放せんとする動きの中にいるように思われもする。

例えば、(物理的に)解体され、(見開きの)頁毎にスキャンされ、次々とデジタルデータ化されて、ウェブ上で閲覧できるようになるテクストは、二重に脱神話化されたテクストであると言えるだろう。聖書のような神の言葉としての、人間的な秩序を拒絶する神聖なるテクスト、そのような観念を育む神話から自由になった本、しかし本は本で人間的な秩序を何重にも纏っているうちに、しかも500年以上の長きにわたる時間のなかで、それ独自の神話、本の神話、本という神話を形成するに至った。

そして近年、私たちはその「本という神話」の解体のはじまりに立ち会っている。そう言えるのだろうか。たしかに、ウェブを一冊の巨大な書物、本として表象することは不可能ではないが、書物や本そして「ページ」という比喩が生きている限り、本当の解体は始まっていないとも感じる。

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最近私は敢えて「あなたに本を愛しているとは言わせない」というタイトルで好きな本について書いている。いうまでもなく、その「あなた」は私自身のことであり、私は私に向かって、お前は本を愛していない、そんな振りをする資格はない、と自己告発するような、ひねくれたことをしている。なぜなのか、自分でもよく分からないところがある。

私は本を愛しているとは言えない。そもそも本を愛するとはどういうことなのかさえよく分からない。ただ、私の今までの人生の少なからざる部分が本を読むという体験を通じて形成されたことは事実であり、その「記憶」をなかったかのごとく改竄することはできない。しかし、これから先のことは分からない。