女と濁(にごり)

一昨日の朝日の夕刊で、坂東玉三郎の記事が目に留まった。歌舞伎座玉三郎が演出、主演する「高野聖」が現在上演中であるという。鏡花作品は彼(彼女)のライフワークの一つである。見たいなあ、と思った。以前から玉三郎に、歌舞伎の「立女形」に興味があった。それは昨日書いたリンギスの身体論にもつながっている。

男の身体のなかに女を住まわせる、男の身体を女そのものに近づける業。

それを言葉の身体、「文体」でひとつの極みにまで登り詰めたのが泉鏡花だったのだろう。玉三郎にとっては泉鏡花は先生のようだ。

その記事のなかで鏡花の作品世界に対して玉三郎が語る印象的な言葉が引用されている。

修飾語が多く、どろどろとして難解な世界ですけど、最後に浄化がある。濃厚な色彩なのに最後に白い光になる。女性を礼賛している。でも神とは言っていない。女は濁を持って出てくるから。
(2008年7月11日金曜日朝日新聞(夕刊)「ゆらめき 魔女か聖女か 泉鏡花高野聖」の女になる 坂東玉三郎」)

「濁(にごり)」という言葉に驚き、何か非常に重要なものに触れた気がしていた。玉三郎がその「濁」を彼/彼女の身体を通じてどう表現するのか見てみたい。

そう言えば、「孤独」と書かずに「孤獨」と書いた詩人がいた。「にごりが見えてくるでしょ」と説明しながら。