日曜日の昼下がりの散歩

日曜日の昼下がり、強い陽射しとアスファルトの照り返しに汗だくになりながら、底の薄い靴を履いて一人で町内を歩く。朝の散歩、夜の散歩のときには感じられない独特のちょっと疲れたような町の空気を吸い込む。足裏から全身に伝わる衝撃を一所懸命計算しながら筋肉の力の入れ具合を微調整している脳、身体を感じる。

味のあるデザインのユリ(Lily, Lilium)の花が目に留まる。黒胡麻をまぶしたように見えた。縁がちょっと焼け焦げたようにも見えた。この黒斑模様にはどんな生物学的な「意味」があるのだろうか。おそらくある種の昆虫との関係が潜んでいるのだろう。その模様を何かと勘違いして、見事に誘惑される昆虫がいるのだろう。人間の世界だけでなく、デザインというものは、相手あってのコミュニケーションの一種なのだと再認識する。違うかな。

私は普段は世界を、例えばユリとある種の昆虫の関係として捉えようとする。しかし、もう少し立ち入って考えたときには、「ユリ」とか「昆虫」という姿を取る前の情報の複雑な流れの様子が見えて来るような気がする。詩人なんかは、そんなある意味で「科学的な」水準で言語を独特に再構築、再組織化するんだろうな、と想像する。

ヨウシュチョウセンアサガオ(洋種朝鮮朝顔, Datura stramonium)にもうトゲトゲの果実がなっていた。早い。昨年の夏から秋にかけて、この果実にカメムシが群がり、皆恍惚となっていたのだった。異様な光景だった。ヨウシュチョウセンアサガオカメムシの関係性を構成する情報流はユリの場合とかなり違うはずだ。なんか激流のような気がする。