ページネーションの実験

『アフンルパル通信』は旧来の出版物のどのジャンルからも逸脱する異形の「書物」である。短冊を彷彿とさせる他に例を見ない縦長の判型である。見開きがちょうどA4サイズほどで、文庫本の見開きを縦に二つ並べた大きさにほぼ等しい。見開いたときに、文庫本の4頁相当、最大二千字余りを一望、通覧できる仕組みである。広義の組版タイポグラフィー)あるいはページネーションの観点からも大変興味深い「書物」である。

前エントリーで紹介した『アフンルパル通信第7号』に管啓次郎さんの「Agend'Ars」と題された連作詩三篇が掲載されているのだが、単なる偶然かもしれないが、そのページネーションに驚いた。見開き2頁に2本の極細の横断線が走り、三段に分割された平面に同じ行数の三篇の詩が並ぶ。視線はページという敷居を一度ならず、二度、三度、...、と跨ぐことになる。

普通の書物ではページという物理的切断を眼と指先で受け入れつつ、テキストの連続性を頭の中で理念的に生成、再生するわけだが、『アフンルパル通信第7号』の12ページから13ページにかけての見開きにおいては、テキストの連続的な一体が、肉を切らせて骨を切る流儀で、ページを三度にわたって侵犯している、踏みにじっている。単なる偶然かもしれないが。

吉成秀夫さんは「編集子の栞 marginalia」のなかで、その三篇の詩そのものに関する感想をこう記している。

管啓次郎先生の詩は、一篇一篇から、それ以上少しでも進めば世界が崩壊するようなぎりぎりの臨界のエッジを感じさせられます。絶海の光景です。認識の荒野へと旅する意味ではもっとも戦争状態にある言語かもしれません。私の個人的な印象にすぎませんが、管先生の詩は、世界が終わる瞬間の寸前の光景か、あるいは戦いの後の光景のなかにほとんど踏みにじられてぎりぎり残されたかすかな救いを感じます。

吉成さんが鋭敏に感知した「世界が崩壊するようなぎりぎりの臨界のエッジ」を、私は上で述べたようなページネーション上の実験ともいえる大胆なテキストの配置からも強く感じる。ただし、その場合の「世界」とは旧来のページネーションに支えられて読まれる世界のことであり、すでにこの連作詩においては、それが崩壊した後の世界が提示されているとも感じる。そして、もう少しだけ立ち入って言えば、吉成さんが管さんの詩から個人的に受けたという印象、「世界が終わる瞬間の寸前の光景か、あるいは戦いの後の光景のなかにほとんど踏みにじられてぎりぎり残されたかすかな救い」とは、管さんの詩と深く共鳴する『アフンルパル通信』そのものの宿命のような気がしてならない。

吉成さんのいう「かすかな救い」に関して、私は個人的に初めの詩篇「16」の最終行に涙しそうになった。

私の犬のやわらかい耳も天使になった(13頁)