一日一本の缶珈琲のような


ほぼ実物大?

またまたまたコンビニのくじ引きで缶珈琲が当った! というのは嘘で、今日は一仕事終えてから自販機でこれを買った。なんと珍しいことか。缶珈琲はまず買わないし、よしんば買うとしても断じてブラックのはずなのに、迷わずやや甘のこれを買ってしまった。伏線はすでに張られていた。昨日の朝の散歩で見かけてなぜか惹かれて写真も撮ったエメラルド・マウンテン・ブレンドである。デザインの観点からは最近の缶珈琲のなかではインパクトに乏しい地味な部類に入るだろうが、なぜか惹かれた。「自然な」配色だろうか。エメラルド・マウンテンの山並み、立ちのぼるアロマ(芳香)を表わすGEORGIAの「O」の変形書体が、「心の前立腺」(hayakar語)、いや琴線に触れたからだろうか。自分でもよく分からない。そして、もっと大きな伏線、遠因として、今日37回目を迎えた新聞連載小説の主人公の「思想」に共感したことを挙げないわけにはいかないだろう。

 小和田君は学生の頃、テレビで街頭インタビューを受けていたサラリーマンが「一日一本の缶珈琲が楽しみ」と語っているのを見た。「そんなことが本当に楽しみに成り得るのだろうか」と不思議に思っていたが、自分がサラリーマンになってみると、これが本当に楽しくなったので驚いた。
 「人間はその気になれば、缶珈琲一つで幸せを噛みしめることができるのです」
 小和田君が缶珈琲のもたらす小さな幸福について熱弁を振るっていたら、……


 (森見登美彦作・フジモトマサル画『聖なる怠け者の冒険』10、朝日新聞夕刊掲載)

ホッと一息つきながら、冷えた缶珈琲をぐびぐびと喉に流し込む。その時、たしかに「小さな幸福」を感じたような気がした。しかし、私の場合はやはり「一日一本の缶珈琲が楽しみ」にはなりそうもない。結局、高くつくし、それに、「缶珈琲」はひとつの分かりやすい喩えであるに違いないと思うからである。そして、エメラルド・マウンテン・ブレンドの最後の数滴をズルズルと啜っているときに、あることに思い至った。それは新聞連載小説『聖なる怠け者の冒険』こそが実は「一日一本の缶珈琲」なのではないかということだった。それは、日曜祝祭日を除いた日の夕方、日本中のサラリーマンが仕事を終えてホッと一息つく時間に間に合うように配達されるしね。

それにしても、自分の書いた、描いたもの、まあ「作品」を、「一日一本の缶珈琲」のごとき「小さな幸福」をもたらすものとして、この国のなかで生きる「普通の」人たちに向けて毎日届けるというのは大したことであり、なかなか出来ることではないと思う。


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