辺見庸による渾身のチェット・ベイカー論「甘美な極悪、愛なき神性」の中の言葉。
ああ、人はここまで堕ちることができるのか。にもかかわらず、いや、だからこそ、ここまで深くうたえるのか……。
(辺見庸『美と破局』毎日新聞社、2009年、18頁、asin:4620318000)
藤原新也にとってインドの旅は、世界を風景化、光景化してしまう文明の傲慢な視点を壊す働きをした。彼は、風景や光景、景色をそういうものとして成り立たせる、すでに疎外され虚勢され乾涸びた精神が、風景以前の荒々しくも美しい自然、大地と風、花と蝶に急速に接近して行き、そこで、そのなかで、大地そのもの、風そのもの、花や蝶そのものに「成る」境域に触れる。
彼らの肉体は、風景という形式の中に組み込まれた小さな立木のように、風が吹けば、その風の吹くように、ふところを開けて通してやるのであって、ことさら風をさえぎるわけではない。風の吹く間、彼らの小さな木の葉は風の程度に応じて揺れるだろう。しかし、彼らを通り過ぎてしまった風は、風景の中の一つの弧として、再び風景にかえりざき、そしてその時、かの木の葉は、その揺れるのを止めるだろう。
二回目の印度の旅で、ぼくはこのようなインドの土地と人々の内部を見たような気がした。
今考えれば、1968年、はじめてインドを訪れた時も、風景の中の一本の立木のような仕方で生活を営む、きわめてインド人の生活を代表するようなインド人に、何回かは出会っていた。
インド亜大陸の北東に位置する、ヒマチュル・プラテージ州の一角で、ぼくは一人のサドウ(聖者)と、山を下っていた。山の三分の二を降りたところで、急に下界の見える崖っ縁に出たのだが、十月とはいえ、このように高い所は肌を刺すような風が吹きつける。ぼく自身は風を避けてそのまま歩き続けようとしたが、サドウはその崖っ縁でしばらく止まってしまった。そして長い間、風を真向こうから受けて立っていた。
それまでにも、彼は時々、ぼくからスッと離れて行くことがあったが、その時、再びいっしょに歩み始めると、彼はぼくに向かってこのようなことを言った。
”シーンヤ(ぼくの名前)、私は今しがた風になったよ”(藤原新也『印度放浪』朝日文庫、301頁〜302頁、asin:4022607742)