辺見庸による渾身のチェット・ベイカー論「甘美な極悪、愛なき神性」のひとつの眼目は、「反消費主義」、「反資本主義」にある。
辺見庸は「仮説からの推論」、「妄想」と断った上で次のように語る。
もうひとつの推論は、チェットという甘美な悪は、あまりにも爛(ただ)れているために、それ自体が底の底まで病んだ消費資本主義の市場でさえ、大っぴらに流通させ、消費させ、再生産するのがためらわれる質のものではないか、という点である。チェットという人物は、家庭や労働や愛や貯蓄や奉仕や投票、信仰といった関係性、社会性、品性を、だれよりもきれいさっぱり躰(からだ)からこそげつくし、自己存在のすべてを麻薬と音楽のみに(恐らくドラッグが主、音楽は従に)収斂(しゅうれん)してしまった、たぐいまれなアーティストであり、最終的には自身が麻薬と化した亡霊でもあった。いかなる悪をも流通、消費させる後期資本主義そしてポスト資本主義のいまにあっても、チェットほどの無為、無意味、空虚は生産材としての回収がむずかしく、CM化すなわち資本のための物語化と認証も不可能にちかい。まして、国家権力がチェットを利用しようとしても国家の崩壊につながりかねない”ワースト・ジャンキー”なのだ。それこそがチェットの逆説の偉大さなのである。
(辺見庸『美と破局』毎日新聞社、2009年、21頁、asin:4620318000)
笑える。しかしながら、こうして書物を通じて辺見庸の言葉を読むことができてしまう「逆説」というか「裏道」ないしは「路地」こそは、書物の「可能性」を示唆すると言えるだろう。
ところで、「甘美な極悪、愛なき神性」のある注にはこう書かれている。
1987年6月14日、東京・人見記念講堂公演。「アイム・ア・フール・トゥ・ウォント・ユー」については、1986年12月録音の『ラブ・ソング』に収録されたものもまちがいなく絶品である。東京公演でもそうであったが、ピアノのハロルド・ダンコと、こういってよければ、まるでヘロインとコカインのようにとけあい、ひびきあったのである。(辺見庸『美と破局』22頁)
辺見庸が言及する『ラブ・ソング』には以下の曲が収録されている。
1 I'm A Fool To Want You
2 You And The Night And The Music
3 Round Midnight
4 As Time Goes By
5 You'd Be So Nice To Home To
6 Angel Eyes
7 Caravelle
たしかに、HAROLD DANKOのピアノは「奇蹟」の一環である。BEN RILEYのドラムスも、JOHN BURRのベースも見事というしかない。私の場合は、10分20秒のRound MidnightにおけるHAROLD DANKOのピアノは何度聴いても鳥肌が立つ。