いままでの自分を他人のごとく突き放して、どこまで見切ることができるか。そして新しい地平に抜けることができるか。カッコつけて言えば、そういうことが賭けられていると薄々感じています。少し前まで自分がいた、そして了解していると思っていたはずの現実がまるで違う姿をして立ち上がってくる、世界の地平がひっくり返る、目からウロコが落ちる、新しい光が当てられる。
でも、新しい自分のいる地平を見渡しても他には誰もいない。あっちこっち歩いてみるしかない。でも、誰にも出会わない。仕方ない、これぞ荒野、コーヤ、wasteland。自分で楽しめる場所をあちらこちらに作るしかない。友だちのいない、できない子供が砂場で一人遊びしているようなもの。そんな彼/彼女のところに、一緒に遊ぼう、と声をかけてくれる奴がひょっこりと現れる。きっと彼/彼女も同じように一人遊びをしてきたんだろうな、と微かな共感が生まれる。そしてワクワクゾクゾクするような「荒野の決闘」が始まる。ジャーン!
そしてもはやそれはブログの枠を超えて見据えられるべき現実総体との関わりの問題として浮上する。ブログ内おしゃべりとしてではなく、あなたはあなたの現実の歩みを私の現実の歩みにどうつなげようとしているのか。他人事としてではなく。
ブログを書きつづけてきたことの意義は、編集や出版を他人事として鵜呑みにせず、自分の体験として咀嚼し、消化しつくし、既存の編集観や出版観を壊す働きをしたという点にある。その到達点をこれでもかというくらい見せてきた。面倒くさいなあと思いながら、説明もしてきた。おしゃべりはもういい。あなたには現実に何ができるのか。
ブログを本売るための手段にしたり、ブログのコンテンツを、あるいはコンテンツから「本」を作ることはすでに問題ではない。そんな欲望からは自由になった人たちと何かを一緒にできるなら、仕事としてしたい。かといって、本を軽視しているわけでは全然ない。むしろ尊敬さえしている。本を本のままに、とはそういう意味である。その上で、ブログを今までにない地平に解き放つことができないか。パッケージ化された本、あるいは何でもいい、現行の出版流通に乗るような紙媒体の利点を活かしつつ、ブログのコンテンツへの水路を拓くような情報デザイン。そんな理想を具体的な形、アイデアとして見せてくれる人はいないのか。いないだろうな。だから、「あまり期待はしていません」という呟きを抑えることができなかった。
「本にして出版したい原稿はありませんか?」と打診してくる未だに勘違いした編集者は後を絶たない。「君は、一体何をしたいの? 君が君の頭で考える本とか出版て何なの? これ以上本を殺すことに加担するのはもう止めにしたら? もし、本当に、もし、だけど、ブログに色目を使うなら、もっと粋な口説き方ができなきゃ、相手にされないよ。で、口説くには口だけでなく材料がいるでしょ。相手が振り向いて目を輝かせるような、ね。それは不可能ではない気がするよ。でも今の君には不可能だと思う。だって、ぼくはブログだけでも充分すぎるほど幸せだから。」