精神保健


新しい雪が10センチくらい積もっていた。軽い雪だ。家の前の雪かきをしてから散歩に出る。もうすっかり根雪になった。萎れた花もほとんど雪に埋もれた。裸の木々、屋根の雪やツララ、果実や新芽が目にとまる。買物を両手いっぱいに抱えてコンビニから出てきたおじいさんと目が合った。一人暮らしなのだろうか。左手には大きな焼酎のペットボトルの入った袋、右手にはティッシュペーパー五箱パックと弁当が三つか四つに数種のお惣菜らしきものが入った袋を持っていた。私がサフラン公園に寄り道してから歩道に出たとき、そのおじいさんは前方をやすみやすみゆっくりゆっくり歩いていた。焼酎の入った袋は左肩にかけていた。ときどきよろめいているように見えた。追い越し様に振り返って声をかけた。「おとうさん、そこまで、持ちましょうか」「いや、いや、大丈夫。ちょっと買いすぎた」「お持ちしますよ」「いや、いや、大丈夫」おじいさんは満面の笑顔で私の申し出を断った。「そうですか。じゃあ、気をつけて」「ありがとう」近い将来、逆の立場に立ったなら、この私も同じように断っただろうか。それとも「ありがとう、じゃあ、ちょっと頼むよ」と受け入れただろうか。分からない。



コスモス(秋桜, Cosmos, Cosmos bipinnatus



わずかに色の残るキク(菊, Garden mum or Chrysanthemum, Chrysanthemum morifolium



カエデ(蝦夷板屋, Acer mono Maxim. var.


昨夜記録したイタリの精神科医フランコ・バザーリが60年代に始めた「地域精神保健」の運動のことが気にかかっている。もっとも、精神病棟廃止という狭い意味でも、行政指導の運動でもなく、もっと広い意味での、ひとりひとりの何気ない暮らしに根を下ろした生き方という意味での、その土地で健康に共に生きるという意味での「精神保健」の方法とでも言えるようなことである。それは、散歩をする傍ら写真を撮りながら、出会った人たちと話をしながら、私が半ば無意識にやろうとしていることにどこかでつながるのかもしれない。もしかしたら、沖家室島にはそれがあり続けて来たようにも直観する。



ハクモクレン(白木蓮, Yulan magnolia, Magnolia heptapeta[denudata]



未詳



オオハンゴンソウ(大反魂草, Cutleaf coneflower, Rudbeckia laciniata)か


そう言えば、先日富山駅に降り立ったときのこと。改札口の傍で南無さんの迎えを待つ4、5分の間のことだった。突然、作業服を着た坊主頭のひとりの中年男が外から飛ぶように踊るように入ってきて、私の目の前を通りすぎて、改札口に立っていた駅員に何やら尋ねていた。なぜか彼のことが忘れられない。私を含めた周囲の人間とは明らかに異質な空気を纏っていた。表情も仕草も動きもまるで異星人のようで、彼の周囲だけ演劇の舞台ででもあるかのような錯覚をおぼえたほどだった。ピエロか何かの演技をしているのだろうかとさえ思った。迎えに来てくれた南無さんとお子さんとお孫さんの記念写真を撮っている時にも、傍によって来て両手でピースをしたりしていた。尋常ではない「明るさ」だった。酒に酔っている風ではなかった。気がふれているのかもしれないとも感じたが、他人に危害を加えるような男ではなかった。時と場合によっては、それこそどこかに閉じ込められてしまうかもしれないような男だった。そんな男が駅構内で人と人の間を縫うようにして風のように舞っていたのだった。