Let's get astray 2:黄昏時の海に面した公園のベンチ


室蘭民報2009年12月20日(日曜日)


冬のある日の黄昏(たそがれ)時、一匹の黒猫が校庭のど真ん中を横切っている。無人の校庭の身を隠す物の何もない対角線上を八方におのれの身体をさらしつくして横切っている。思わず「はぐれたのか」と呟いた「私」は、その姿に自分自身の姿を重ね合わせる。そして海に面した公園の青いベンチで小犬を胸にかき抱いたおばあさんの隣にすわる。

私は見当識に自信がもてなくなっていた。自分もまた、はぐれている。はぐれるにふさわしい助詞がなんだったかも浮んでこない。「を」なのか「に」なのか「から」なのか。親、家、世界、子ども、国、故郷、友、記憶、方位、恋人…といったおびただしい自立語と私の関係のあやふやさ。それが、はぐれるということなら、言葉たちを正しい助詞でつないでやる必要がありはしないか。助詞なしで私はただはぐれている。青いベンチが見えた。先客がひとりいる。とても貧しそうなおばあさんだった。小さな犬を胸にかき抱いている。あたりは暗くなっていた。だが、おばあさんと犬だけが、舞台上でスポットライトを当てられているように明るい。
 おばあさんは火事のように紅い残照を全身に浴びるがままに眼を見開いて身じろぎしない。行き暮れたのか、痴(し)れたのか。犬はときおり、おばあさんの胸からホホホーン、ホホホーンと力なく遠吠えした。おばあさんは放心して、残照のかなたに鮭色に染まるただ広い海原を見ている。犬はおばあさんの胸の記憶をまる飲みして彼女の老いた胸そのものになり、紅い海原にホホホーン、ホホホーンと吠え声をあげている。おばあさんと犬の隣に私はすわる。ビルのむこうに紅い水平線があった。

 辺見庸「はぐれるたそがれ 生き物たちの無意識」(『室蘭民報』2009年12月20日


なぜ、黄昏時の海を望む公園の青いベンチなのか。


そういえば、「ミルバーグ公園の赤いベンチで」では、同じように黄昏時の海を望む公園のベンチで展開する異様な心象風景が描かれていた。ただし、赤いベンチで。

今日、薄暮れる前の四時五十分、私のなかのミルバーグ公園に来てくれまいか。ゴンドラが七つついた観覧車近くにある楡の樹の下の赤いベンチに。(中略)海は浅葱色に凪いで、宙天を下から押しあげるように膨らんでいた。無人の観覧車がゆっくり静かに回っている。(中略)海と空の際にどろりと融けて滲んでいたオレンジ色の帯が見るみる細っていき、やがては海と空を境う線のすべてが消えていく。(中略)海の在りかはあやふやな想い出のなかか、さっきの残像にすぎなくなる。

 辺見庸「ミルバーグ公園の赤いベンチで」(『美と破局』149頁、asin:4620318000


黄昏時は世界を血の滲んだ母の胎内のようにするから? 「海」は「これ以上どこにも行き場のない」(ニコラ・ブーヴィエ「稚内」、『ブーヴィエの世界』165頁、asin:462207298X)場所、そこからやって来ていずれはそこに帰る場所、人間が行き着く最後の場所だから?


ふと、サフラン公園の東屋のベンチで礼文島から流れてきたというおばあさんの隣に座った時のことを思い出す。途切れ途切れの会話の間、白波のたつ海にうかぶ島の映像が浮んでいた。


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