椿(ツバキ)と동백(トンベック, dongbaeg)


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『植物和名の語源探究』(八坂書房、2000年)のなかで、深津正(ふかつただし)氏は各種のツバキ語源説を検討した結果、與謝野鉄幹、司馬遼太郎、そして中島利一郎の主張を挙げ、さらに自身の体験も踏まえて、ツバキの語源は朝鮮語であるという説を唱えています。


まず、歌人として有名な與謝野寛(鉄幹)は、『日本語原考』の最終回で、ツバキの語源について次のように述べているといいます。

 ツバキ(椿)は冬柏の古音“Tsu-Pak”(ツーパク)が“Tsu-Baki”(ツーバキ)と転じた語。(中略)義は冬日も緑なる柏の一種なるが故に称する。柏の常緑の喬木に亘って広く用いる語である。予はツバキの語源を採るに久しく苦しんだ。然るに計らずも朝鮮の丁茶山の著した『雅言覚非』にツバキを冬柏と呼び、翠柏・春柏・叢柏とも呼ぶことを知り、支那の古語が我国にも彼国にも保存せられている事を知った。(210頁)


つぎに、司馬遼太郎の『街道をゆく』(第28)「耽羅紀行」と題する済州島の紀行文にも次のような記述があるそうです。

 伊豆大島が椿の島であるように、済州島も古来、全島に椿が茂っている。島の物産として椿油が“陸地”へ移出されつづけた歴史も相当古い。
“玄さん(注−案内に当たった玄文叔氏)、椿は韓国語でなんといいますか。”
“冬の柏と書いてトンベックといいます”
冬はtongである、柏はbackで、私の耳にはピヤットと聞こえる。ツバキという日本語の音に似ている。與謝野鉄幹が明治28年京城(ソウル)にわたったとき、この地のことばに触れ、ツバキの語源は朝鮮語にあるのではないかといったといわれる。むろん素人の言語比較だからとるに足りない(中略)それにしてもトンベックとツバキは音が似ている。與謝野鉄幹がそう思ったのも無理がない。(211頁)


また、東洋史言語学の専門家中島利一郎*1も「植物語源考」と題する雑誌論文(1938)のなかで、次のように主張しているそうです。

つばきの語源が朝鮮語冬柏(トンバイク)に繋がることはほとんど疑いないと思われる。(211頁)


そして、深津氏は自身の体験も踏まえて次のように結論します。

 私も、この朝鮮語説に大いに共鳴し、拙書にもこれを紹介するとともに、韓国人に接する機会のあるごとに、“冬柏”の語を実際に発音してもらい、何度もこれを耳にしてきた。これら韓国人の発音がすべて私の耳には“Tsun-baick”と聞こえ、この“Tsun-baick”が日本語のツバキに転じたという確信はいまや揺るぎないものとなった。(211頁)


なるほど、、。植物の名前に朝鮮語と日本語をつなぐ<声>の古い記憶が内蔵されているということは大いにありそうなことです。


そういえば、昔、趙容弼(チョー・ヨンピル)が歌ってヒットした「釜山港へ帰れ」は「椿咲く」で始まる歌だったなと思い出しました。歌詞のその先が思い出せなくて、ちょっと調べてみて驚きました。日本語の歌詞と韓国語の歌詞はかなり異なるのです。詳しくは下の「ひづる」さんと「CAN」さんの記事を参照してください。


つまり、日本語歌詞では男女の悲恋がうたわれ、韓国語歌詞では兄弟(同胞)の悲運がうたわれています。両者ともに地名としては「釜山港」(朝鮮語歌詞では「五六島」も)しか出てきません。「日本」は言葉としては登場しません。が、しかし恋人の行先、兄弟の行く先が日本であることは明らかです。「ひづる」さんが書いているように、恋人も兄弟も離郷した「在日コリアン」のことなわけです。日本語歌詞は日本向けに「恋愛」モードにアレンジされたものだそうですが、それでも男女の悲恋をうたう言葉の底には日韓の歴史的背景がはっきりと刻まれているように感じます。

久しぶりに、YouTubeチョー・ヨンピルの歌声を日本語版(http://www.youtube.com/watch?v=17cA7096SB0)と韓国語版(http://www.youtube.com/watch?v=cvN2xPdWgtI)で聴きました。日本語の「ツバキ」の部分は司馬遼太郎が語ったように、私の耳にもたしかに「トンベック」と聴こえました。「ツ・バキ」と「トン・ベック」。ほとんど<兄弟>のように感じました。

*1:ウェブ上に中島利一郎に関するまとまった記載はまだない。ウィキペディアの項目「小谷部全一郎」小谷部全一郎の批判者として登場する。