精神の野生:ソローの場合


ソロー手書きの地図、部分(『コンコード川とメリマック川の一週間』398頁より)



コンコード川とメリマック川の地図、部分(『コンコード川とメリマック川の一週間』3頁より)





The Concord and Merrimack rivers: detail from Nathan Hale, Map of New England States with adjacent parts of NY and lower Canada (Boston, 1826)*1


ソローの『コンコード川とメリマック川の一週間』を読み始めてからもうひと月以上経つ。毎日のように出たり入ったりを繰り返している。いつの間にか160年の歳月とニューイングランドと札幌との間の距離を越えて、私の中にもコンコード川とメリマック川が流れ始め、豊平川石狩川のイメージと重なったり混じり合ったりしている。「一週間」の体裁をとったソローの舟旅の記録である本書は、実質的には何年分もの旅の記録が思想的に凝縮、濃縮されたものであり、文字通りの一週間ではなく、正にソロー流儀の「創世記(Genesis)」に他ならない。彼はその舟旅の途上と記録の推敲の中で何度も生まれかわるようにして、世界をより深い土台の上に一から何度も作り直そうとしたように思われる。彼の舟旅は土曜日から始まり、日曜日、月曜日、火曜日、水曜日、木曜日、そして金曜日で終わる。今私の読書は最終日の金曜日の後半に差し掛かっているが、読み終わりたくない気分である。と書いて、読み終わる、読了などということはありえないと思い直す。ソローの舟旅の記録の随所から私自身の旅がすでに色々と始まっている。ソローの舟旅では、「木曜日」のある朝、カヌーによる遡行がアンカヌーナック山の麓で限界を迎え、ソロー一行は舟を降りて雨と霧の中を徒歩で流域を歩き始めた。そして「一週間後の正午」によい風の中を舟で帰還の旅を開始した。それにしてもソローの旅は度を越している。面白い。生まれ育った身近な土地の景観を自然のエレメントにまで噛み砕き、消化し尽くす一方で、歴史に耳を澄まし、社会に目を凝らしながら、ソローは自然との最小限の<取引>によって創造的に生きる方法、道を探り続けた。すなわち、ソローは自然を一方的に飼い馴らそうとする(開発、搾取する)のではなく、自然の野生にできるかぎり接近しようとした。その際に彼の拠り所となったのは、精神の野生あるいは無意識としての詩や音楽の力だった。そうして彼は生きることを内側から充実させ、外側の自然との究極の均衡に至る道を探り続けた。図式的に整理するなら、ソローは、芸術/自然という軸に、文明(飼い馴らし)/野生という軸を交差させて、芸術においても自然においても野生を尊重する観点から、芸術と文明が持続しうる思想的解を求め続けたと言えるだろう。


「木曜日」の中からその辺りに関して特に目にとまった箇所を引用しておきたい。気になった語句には随時原語を併記する。

…辺境(frontiers)は西にも東にも、北にも南にもなく、ひとりの人間が一つの事実に向き合う(fronts)ところなら––それは彼の近くにあるのだが––どこにでもある。(ヘンリー・デイヴィッド・ソロー著、山口晃訳『コンコード川とメリマック川の一週間』352頁)

音楽(music)は思考(thought)の中には自らの場所を持っているが、言語(language)の中にはまだほとんど持っていない。 詩歌女神(Muse)が訪れるとき、彼女が言語を作り直し(remould)、それに彼女自身のリズムを授けるのを私たちは期待する。(同書355頁)

もっとも野性的な自然(the wildest nature)のなかには、もっとも文明的な生活(the most cultivated life)を成り立たせているものやその結末についての予感だけでなく、これまで人間によって達成されたのより大きな優雅なもの(refinement)がすでにある。…自然は風景の中に人間の芸術(human art)のもっともすばらしい営みを迎え入れる用意ができている。というのも自然自体が非常に巧妙な芸術なので、芸術家が自分の作品の中に姿を現すことはないからである。(同書362頁)

 普通の意味で、芸術は飼い馴らされる(tame)ものではなく、自然は野生(wild)ではない。人間の芸術の完全な作品は、よい意味で野性的であり自然なものであるだろう。人間は自然を見出した以上に、最後は自然をもっと自由(free)にするかも知れないというまさにその点で、人間は自然を制御する(tames)。もっとも、人間はこれまで一度もそれに成功したことはないのかもしれないが。(同書363頁)

自然の企て(undertakings)はしっかりしており、しくじることはない。たとえ私が深い眠りから目覚めても、自然の景観によって、またコオロギの鳴き声によって、太陽が子午線のどっち側にあるかわかるだろう。しかしいかなる画家もこの相違を描くことはできない。風景(landscape)は無数の日時計(a thousnd dials)をもっていて、自然の時の分配(the natural division of time)を示す。無数の形をした影(the shadows of a thousand styles)が時間(hour)を指し示す。(同書367頁)


最後に、ソローがゲーテに言寄せて、詩について正面から立ち入って語り、非常に微妙な所に触れる箇所を少し長くなるが引用しておきたい。ソローはゲーテをその作家としての資質を高く評価する一方で、あまりに芸術家的な教育と生活の環境の中で「育ちが良すぎたために、本当に育てられなかった」、すなわち、ゲーテは飼い馴らされた芸術の域に留まり、自然の深い野生に触れる「詩人の無意識(the unconsciousness of the poet)を欠いていた」と指摘しながら、詩とは何かについて次のように語った。

 詩は人類の神秘である。
 詩人の表現を分析することはできない。彼の場合、文が一つの言葉であり、音節がすでにそれぞれ言葉である。詩人の音楽にあてがうことのできる言葉はない。だが、私たちがその音楽は聞くが、言葉のほうはかならずしもいつも聞くとはかぎらないからといって、気にすることはない。
 多くの韻文は、詩に達していない。厳密な意味でまさに危機のときに書かれたのでないからである。もっとも、それは思いもよらないほど詩に近かったかもしれないが。詩が書かれるのは、奇蹟によるしかない。それは取り戻すことのできる思考ではなく、後ろへと遠のいて行く広大な思考からつかみ取られる叫び声である。
 詩は分割できず、妨げることのできない表現であり、文学へと成熟していく。そして詩は、それが成熟していくのを求める人によって、分割され妨げられることなく、受け入れられる。
 あなたが聞くことがないであろうことを話すことができるなら、自分が読むことがないであろうことを書くことができるなら、あなたは稀なることをしたのである

(中略)

 実は作詩の能力というのはとても危険なものなのである。それは先住民が頭皮を剥ぐように、一撃で生きている心臓を取り出す。それを表現できたときは、私は自分の生命がさらに外に向かって成長したかのように感じる。(同書374頁〜375頁)

 Poetry is the mysticism of mankind.
 The expressions of the poet cannot be analyzed; his sentence is one word, whose syllables are words. There are indeed no words quite worthy to be set to his music. But what matter if we do not hear the words always, if we hear the music?
 Much verse fails of being poetry because it was not written exactly at the right crisis, though it may have been inconceivably near to it. It is only by a miracle that poetry is written at all. It is not recoverable thought, but a hue caught from a vaster receding thought.
 A poem is one undivided unimpeded expression fallen ripe into literature, and it is undividedly and unimpededly received by those for whom it was matured.
 If you can speak what you will never hear, if you can write what you will never read, you have done rare things.

 ...

 The talent of composition is very dangerous, ––the striking out the heart of life at a blow, as the Indian takes off a scalp. I feel as if my life had grown more outward when I can express it.(Henry David Thoreau, A Week on the Concord and Merrimack Rivers, LA.*2, p.268)


「取り戻すことのできる思考」とは飛躍なく再構成された議論としての「論理」を指す。そして、再構成から逃れ去る思考の運動を「叫び声」? 「色調、傾向」? 「音楽」? として奇蹟的に捕らえることに成功したのが詩に他ならないと言う。また、詩は、自分が聞くことができることを越えて話し、自分が読むことができることを越えて書くことができたときに、達成されると言う。しかし、それでは、狂気との境目はどこにあるのか? そして詩は下手をすると狙ったものを損ないかねない「危険」な能力であると言う。たしかに、詩は心臓を一撃する、あるいは心臓を一撃されたときにそれが詩であると知るということはある気がする。

*1:Henry David Thoreau, A Week on the Concord and Merrimack Rivers; Walden; or Life in the Woods; The Meine Woods; Cape Cod, The Library of America, 1985, p.1064

*2:Henry David Thoreau, A Week on the Concord and Merrimack Rivers; Walden; or Life in the Woods; The Meine Woods; Cape Cod, The Library of America, 1985