チェーホフとオリガ
アントン・チェーホフは1860年1月29日ロシア南部のタガンログに生まれ、医師および作家として生き、1904年7月15日にドイツのバーデンワイラーで結核で死んだ。享年44歳。最期の言葉は、ほとんど知らなかったはずのドイツ語で、しかし明瞭に発音された、 Ich sterbe("I'm dying", 「私は死ぬ」)であったと伝えられる。
ロジェ・グルニエが書いている。臨終の床にあるチェーホフに女優オリガ・クニッペルが近づいて、氷嚢を胸に置こうとしたら、医師であり作家である彼女の夫は言ったそうだ。−−空っぽの心臓の上に、氷など置いても仕方がないよ。*1
南ドイツ
バーデンワイラーのホテル・ゾンマーの一室で
チェーホフはいった
Ich sterbe
(わたしは死ぬ)
そしてグラスのシャンパンを
飲みほして死んだ...
Ich sterbe
チェーホフはドイツ語で死んだ
何語で死ぬかなんて
(筆者は)
考えたことがない...
一八九一年《戦争と平和》を再読したさいの
医師チェーホフの感想
もし私が(ナポレオンとの戦いで
重傷を負った)アンドレイ公爵のそばにいたら
治してやれたのに−−
無論チェーホフは一八六〇年生まれだから
一九世紀初頭のロシアには存在しえなかった
アンドレイ・ボルコンスキー公爵は死に
一九〇〇年 トルストイは日記に書き付ける
(ワーニャ伯父さんを観に行った 腹が立った)
(チェーホフや絵画 とくに音楽は
その源になにか美しい 詩的な
善良なものがあるような印象をあたえる
ところがなにもないのだ)
因みにぼくはかつて
こういう紙片を持ち歩いていたことがある
−−おのれのために 何物をも望むな
求めるな 心を動かすな 羨むな
人間の未来もお前の運命も
お前にとって未知であらねばならぬ とはいえ
いっさいにたいする覚悟と用意とをもって生きよ−−*2
アンドレイ・ボルコンスキー公爵の妹
マリヤの祈りである
チェーホフが、未来であり、運命であり、未知である「死」にたいする覚悟と用意をもっていなかったはずがない。しかし、たんに「チェーホフはドイツで死んだ」ではなく、「チェーホフはドイツ語で死んだ」と詩人が語るとき、その「ドイツ語で」の「で」は何を意味するだろうか。まるで自分の生涯の記憶をロシア語に置き去りにして、「がらんどうのチェーホフ」はほとんど未知のドイツ語に逝ったかのようではないか。Ich sterbe(イヒ・シュテルベ)の異語の響きをオリガとトルストイはどう聞いただろうか。