ガガイモの舟の裏話

昨日、ガガイモの莢(さや)の片割れを舟に見立てて水に浮かべる実験をしてから「ガガイモの舟」と題して次のように短く暈(ぼか)して書いた。

ガガイモの莢は軽々と水に浮かぶ。この舟に乗って一寸法師のような小さな神様が海の向こうからやって来たと伝えられる。


すると、すかさずストラスブールの小島剛一さんから「どこの国のどの地域の言い伝えですか」と鋭い突っ込みが入り、記紀神話、特に『古事記』にまつわる舞台裏を証さざるを得なくなった。それに対して小島剛一さんからは記紀神話のような政治的な性格の強い言い伝えを日本文化の「中心あるいは根源」とみなす愚を犯さないようにと有り難い忠告を受けた。私はかねがね神話そのものよりも神話が隠してしまった世界の方に関心を抱いてきたので、強く首肯いた。はてなダイアリーはなぜか小島剛一さんからのコメントを受け付けないので、やり取りはいつものようにメールで行われた。


古事記』には次のような記述がある。

故、大國主神、坐出雲之御大之御前時、自波穂、乘天之羅摩船而、內剥鵝皮剥、爲衣服、有歸來神。爾雖問其名不答。且雖問所從之諸神、皆白不知。爾多邇具久白言、自多下四字以音。此者久延毘古必知之、卽召久延毘古問時、答白此者神產巢日神之御子、少名毘古那神。

 「古事記 上卷-4大國主神」より


この記述に後世のかなり怪しい解釈も加わって、少名毘古那神(スクナビコナ神)という小さな神様が天之蘿摩船(アマノカガミノフネ)すなわちガガイモの舟に乗って出雲之御大之御前(出雲の美保の岬)にやって来たという話がまことしやかに囁かれている。しかもそれがお伽噺の「一寸法師」の物語的祖型あるいは源流であるというさらに怪しい解釈ももっともらしく出回っている。このような、疑問だらけの、学問的には信憑性の極めて薄い解釈の複合体ではあるけれども、私はガガイモという植物との衝撃的な出会いと、その正しく舟形の莢や天使のような種子という奇跡的な造形への感動と、さらに漢方ではガガイモの種子は蘿摩子(マラシラマシ)と呼ばれ強壮剤として珍重されてきたという事実などから、ガガイモが権力機構を正当化する神話と結びついてもおかしくはないと考え、むしろそのように結びつける想像力の働き方に興味をそそられていた。そして、怪しい解釈には眉に唾しながら、あのように暈した書き方をしたのだった。私は小さな神様がガガイモの舟に乗ってやって来たという私にとってはとても魅力的な解釈あるいはビジョンを記紀神話の政治的な文脈から解放してやりたかったのかもしれない。