ガジュマルの廻廊:石牟礼道子『常世の樹』


常世の樹


天草上島栖本のアコウの樹、五島福江島の椿、福岡県英彦山(ひこさん)の杉、鹿児島県大口市の桜、熊本県五箇荘葉木の樅の木、熊本県阿蘇俵山のカゴノキ(鹿の子木)、大分県檜原山の千本かつら、大分県高塚の公孫樹(いちょう)、鹿児島県蒲生の樟(くすのき)、鹿児島県屋久島の杉、山口県祝島の桑、沖縄伊芸のガジュマル。


本書は表向きは三十年前に石牟礼道子さんが南島の古樹に逢いに行った旅の記録であるが、その内実は西欧近代文明批判である。彼女は沖縄の嘉手納基地そばの廻廊の如き、気根が垂れ下がるガジュマルに、パルテノン神殿とは異質な文明の可能性を垣間みた。

 ヨーロッパ文明のひとつの帰結がアメリカであり、それをなぞって来た戦後日本の、圧倒的金権信仰の餌食となったのはほかならぬ水俣だった。人類愛とまでは云わない。せめてささやかな慎ましい生命をいとなむ他者への思いやりが、戦後の一地方で、完全に近いほど無くなったのはなぜだ。
 人類が文明を持ち始める時、いずれの種族も神を創造している事をわたしは大切に思うようになった。たぶんその時人は悪と罪とを知ったであろうから。子羊の血を求める宗教ではなく、草木虫魚に至るまで往生を共にする原始仏教の小さな神々を思いみる。人の中のもっとも善美な魂と等身大に向き合い、宇宙に広がりを持つ永遠の神を。それは非権力的な神であらねばならず、全き意味において、生命系の源からわたしたちの個体を貫流して現われうる神でなければならない。
 言葉を換えればそれは、実感の失われた知識によっては、絶対に見出すことのできぬ叡智を見出すことだった。そのような叡智を宿し続けていたものをまず、わたしは水俣の海に視、身のまわりの樹々と川と土にみつづけ、言語に宿っているそれを、南島の歌謡群に見出した。はからずもそれは南九州の、つまりわたしの属する言語脈とゆき来の跡を示すものであった。そしてかの離島群は離島である故に、ヨーロッパから来た個人主義や合理主義とは相を異にする質の、わたしにとっては望ましい精神文化の紬ぎ出される、神殿の在り場所に思われた。
 蝶も白鳥も生きた誰それの魂であり、それらに守護されて、人も村も渡海する舟もあるという意識を持つ島々を、上代の神々あるいは詩人たちの島だとわたしは思う。蝶や白鳥の世界にいる神女たちの憩う所は、天のさしのべる傘のような海辺の古樹でなければならない。ガジュマルの廻廊とはそのような意なのであった。(157頁〜160頁)


本書の「あとがき」には次のように記されている。1982年8月、石牟礼道子さん55歳の時である。

 わたしは人間よりも木の方を好いているようなところがある。ことに年をとっている木を敬慕してやまないが、これは、赤ん坊を愛らしく思うものの、見ていると、何かしら不安がつきまとう心持と関係があるのだろう。
(中略)
 最近、故郷を持たないという感じが自分の中にあるのにおどろくけれども、木のところからわたしは来たと云い聞かせると心が和む。
(中略)
 自分の住むべき木を、わたしはこれから探す気でいる。


しかし、彼女はすでに「楽園の断片」(ジョナス・メカス)としての「自分の住むべき木」を見つけていたとわたしは思う。


(追記)

上の引用文の一節に関して、ストラスブール在住の言語学者である小島剛一さんから次のような鋭い指摘が寄せられた。

石牟礼道子さんの書いたものを私は読んだことが無いのですが、「人類が文明を持ち始める時、いずれの種族も神を創造している事をわたしは大切に思うようになった。たぶんその時人は悪と罪とを知ったであろうから。子羊の血を求める宗教ではなく、草木虫魚に至るまで往生を共にする原始仏教の小さな神々を思いみる。人の中のもっとも善美な魂と等身大に向き合い、宇宙に広がりを持つ永遠の神を。それは非権力的な神であらねばならず、全き意味において、生命系の源からわたしたちの個体を貫流して現われうる神でなければならない」という一節を眼で走査して途方に暮れました。

「人類が文明を持ち始める時、いずれの種族も神を創造している」は、何かの間違いです。欧米人がtotemismとかanimismとか呼ぶ宗教に神概念はありません。仏教も無神宗教です(鬼子母神などの呼称に現れる「神」は、ギリシャ神話の「神」とも一神教の「神」とも全く違うものです)。日本の古来の「カミ」と一神教の「神」は、全く別個の概念です。誤解も誤訳も何もかもひっくるめて「神」と名の付くもの全てを(もしかすると「totem」も「anima」も ?)統合した概念というものは、私の知る限りでは、存在しません。

「たぶんその時人は悪と罪とを知ったであろう」と書く人は、倫理と宗教とは別物だということを知らないのでしょうか。日本語読者の大部分が「法律上の罪」と「宗教上の罪」との区別を明確に意識することなく日常生活を営んでいることを、従って「罪」とだけ書いたのでは何も理解してもらえないことを、知らないのでしょうか。


原始仏教の小さな神々」って、何のことでしょう。
「永遠の神」を想定するということは、「永遠でない神」もどこかの宗教にはあるということなのでしょうか。
「非権力的な神」って何のことでしょう。


  小島剛一、2012年3月3日


たしかに引用した一節だけ読めば、区別すべき諸概念の混同とそのままでは意味不明の語句が見られる、と指摘されても仕方のない書き方であり、『常世の樹』の文学的評価とは別に、このような基本的な知識に関して疑義を抱かせる箇所は訂正すべであろう。そもそも『常世の樹』全体を通して石牟礼道子さんは、神とかカミとか霊とか精霊とか魂などに代わる「新しい概念」の創造に向かおうとし、これまで倫理や宗教として語られてきたことの内容を、現代の人々が好ましい関係を築き上げながら「共に生きる」ことに生かせるように、文学的に語り直そうとしていることを強く感じる。また、そのままでは意味不明の、つまり諸概念が未整理に思われる、三つの語句に関しても、著者に訊ねてみなければ、確かなことは言えないが、いずれも差別や争いを生み出さないような共同体を創出することへの期待やその可能性を表そうとしているのではないかと推測する。小島剛一さんの指摘のおかげで、私は、半ば無意識にそのように「翻訳」しながら読んでいたことを自覚することができた。ここで、諸概念の混同や未整理の状態は、そこから新たな概念を創造する可能性を秘めた生産的なカオスと見なしうるという意見が出るかもしれないが、やはり一般的には余計な誤解を招いたり、まともな理解を妨げる弊害の方が大きいと言わざるをえないだろう。


尚、『石牟礼道子全集 第六巻』(藤原書店、2006年)に収められた同名のテクストに加筆訂正は見られない。