「色を拾って歩いているようなもんさ」と答えたのだけははっきりと覚えている。すると彼は「そう言えば、こんな本がありますよ」と一冊の本を私に手渡した。柔らかい感触の厚い本だった。不思議な本だった。右開きか左開きか迷った。パラパラ捲ったときには、たしかに横並びの文字が見えた。ところがあるページをしっかりと開いてみたら、文字は縦に並んでいた。いったん閉じてから表紙を見直すと、上部に読めない漢字が四つ横に並んでいた。表題のようにも、作者の名前のようにも見えたが、どちらかは分からなかった。作者の略歴が記してあるはずの頁を探した。それらしき頁には半透明のセロファン用紙が薄いヴェールのように重なっていて、横組みの小さな文字がぼんやりと透けて見えたが、判読できなかった。それをめくると縦組みの文字列が現れたが、それも判読できなかった。いったん本を閉じた。次に本を開いたときには、見開きの左の頁の真ん中にモノクロームの風景写真が上下に大きく余白をとってレイアウトされ、右の頁には一行が短い文字列が縦に組んであった。頁からは穏やかな感情が伝わってくるような気がしたが、並んでいる文字は読めなかった。そんな見開きが続いていた。「この本に魅かれています」と彼は呟くように言った。その理由は分かるようで分からなかったが、実は私は知らず知らずのうちに、そんな本を作ろうとしているのではないかという気がした。その本に関しては、結局、著者名も表題も分からず、内容も、文字組の方向さえ、はっきりとしないままだった。その不思議な本を借りたお礼には水晶がいいと思った。気に入った空き缶に大小様々な水晶の欠片を入れてある。本棚の下段の奧からうっすらと埃をかぶった水晶の缶を引っ張りだしてきた。角度によっては兎に見えるやつを選んだ。彼の部屋を訪ねた。彼は笑ってそれを受け取ってくれた記憶はあるのに、彼が住んでいた部屋の記憶がほとんどない。彼の部屋を含む建物の記憶はまったくない。まるで部屋だけがむき出しの空間としてそこにあったとでもいうような妙な感覚が残っている。不思議な部屋だった。入口にたって中を覗いても、眩しいような暗いような妙な光の具合で、物が見えるように目をうまく調節することができなかった。入口そばの床に四角く光る面がやっと見えた。ノートパソコンの画面のようだった。他には何も見えなかった。そんな部屋でどうやって兎に見える水晶を彼に手渡すことができたのか、よく分からない。部屋の外にいきなり一本の木が現れた。艶のある濃い緑の葉のあいだに掌にすっぽり入る大きさの卵形の橙色がかった黄色の実をたくさんつけていた。果実の多くは下を向いているが、なかには上を向いているのもあった。「南国の枇杷にちがいない」とそのとき思った。昔知人が送ってくれた枇杷の実を食べたことはある。だが、枇杷の木を実際に見たことはなかった。
そんな夢から覚めてすぐに樹木図鑑で「枇杷」を探した。そうではないことを願っていたが、夢に現れた木は間違いなく枇杷の木だった。