アメリカハナミズキ


海炭市叙景 (小学館文庫)海炭市叙景 (通常版) [DVD]


佐藤泰志の未完のオムニバス小説『海炭市叙景』に登場する植物は数少ない。芝、アメリハナミズキプラタナス、アカシア(ニセアカシアのこと)、アワタケ(食用茸の一種)、クヌギ大麻草だけである。しかも、まともな描写はない。その中で唯一繰り返し登場するアメリハナミズキにしても、まともに描写されないばかりか、敢えて「アメリハナミズキ」という誤称とされることもある名前が用いられている。正式の和名は「ハナミズキ」で、別名は「アメリヤマボウシ」である。日本では大正期に植栽された北米原産の落葉樹であるその樹は、日本に自生する近縁のミズキよりも目立つ大きな「花」(実際には総苞)をつけるので「ハナミズキ」と命名され、また、その花の姿は日本に自生する近縁のヤマボウシに似ているので「アメリヤマボウシ」とも命名された。一方、現在でも植木や盆栽の世界では「アメリハナミズキ」という名前で流通している場合がある。それを誤称と断定する根拠は必ずしも明らかではない。そのアメリハナミズキは第二章「物語は何も語らず」の第一話「まっとうな男」と第三話「ネコを抱いた婆さん」に、長い冬が終わり、ようやく春を迎えた街の景観、そして大きく変貌を遂げつつある街の景観を象徴する樹として登場する。

 産業道路はすっかり春だ。だが、アメリハナミズキの街路樹が花をつけるのはもう少しあとだ。(小学館文庫、165頁)


 車は工業団地にさしかかった。急にさみしくなった。工業団地は産業道路の右側に広がっていた。どのぐらいの広さがあるのだろう。夜の底ではその感覚は曖昧だ。建売住宅がぽつぽつと建っているだけで、あとはただの野っ原だった。左手にはシャッターを降ろした商店やアパートが並んでいる。街灯とアメリハナミズキの樹ばかりが目につく。工業団地。そんな名前をつけたものの、誘致する工場はなかなか見つからないらしい。計画倒れだという非難も持ちあがっている。(中略)誘致されたのはアメリハナミズキの街路樹だけだ。繁華街はプラタナスが多かったし、山の手はアカシアだ。もっとも彼にとっては樹はただの樹にすぎなかったが。(同、169頁)


 材木を荷台にワイヤーロープで縛りつけたダンプが通り、JRの駅まで行く循環バスが通る。ライトバンや乗用車、オートバイ。トキは正面から押し寄せる騒音と春の陽射しの中で、ぼんやりとそれらを眺めている。あの材木は一体、どこから伐って来るのか。墓地公園のある大楽寺町の山からかもしれない。そのうちきっと海炭市の人々は、何もかも伐りとってしまうのかもしれない。そして、アメリカなんとかという、シャレた名前の街路樹をいいわけでもするように、コンクリートの隙間に植えるのだ。(同、196頁)


一語、特に名前の効果、それがもたらす連想の広がり等に鈍感であったはずのない小説家が、なぜ「ハナミズキ」でも「アメリヤマボウシ」でもなく、敢えて「アメリハナミズキ」を使ったのかとその理由について考えていた。それがそもそもアメリカからやって来た「外来種」の樹であること、そして変貌する街の春をどこかぎこちなく彩る「花」であることが一目で分かる名前にしたかったのではないかと推測していた。