ウェブ進化とエグジログラフィ

ウェブについてちゃんと考えることはとても難しい。ウェブはたんにもう一つのメディアであるだけでなく、新たな環境ないしは世界の成立を強く感じさせるからである。しかもそれを支える素人には見通し難いテクノロジーが急速に進化しているからである。誰もまだその安定した姿を想像することはできない。一般には明らかにもう一つの便利なメディアとしてしか認知されていない。その一方では、例えばグーグルのエンジニアたちのように、はっきりと「世界」と認知していて、新たな世界を構築するためのテクノロジーの開発に日々邁進している者たちがいる。この落差は危険な兆候だと感じる。

私は梅田望夫著『ウェブ進化論』の画期的な意義がまだきちんと語られていないと思っている。「Web 2.0」は新たなビジネス・モデルの創出や起業チャンスの文脈で随分とりあげられるようになったが、それは「ウェブ進化」のいわば表層にすぎない。そして多くの議論が比較的容易に合意を得やすいその表層に集中している傾向がある。しかし『ウェブ進化論』の真骨頂は、ウェブはすでに人類にとって「とんでもない世界、環境」になりつつあるという驚愕すべき事実を突出した調査と分析によって明晰な認識にまで高めて提示したところにこそあるのではないかと思う。その意味では画期的な思想書であると言ってもいい。『ウェブ進化論』をちゃんと読まずに過小評価する連中は、盲目的にウェブの恩恵を与りながら、その上に呑気にあぐらをかいていることが多い。そのことのリスクに想像が及んでいない。むしろ過大評価できるくらいの想像力こそが、ウェブ進化の可能性と危険性を見誤らないためには必要な気がする。

その意味では、ウェブの動向などに見向きもしないが、「世界」の動向に敏感な人たちの証言に耳を傾けるべきだと私は思う。そういう人たちの世界に関する診断と態度決定の方こそが『ウェブ進化論』の思想としての意義を照らし出してくれるはずだからである。

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菅啓次郎さんが、現在雑誌「すばる」で今福龍太さんが連載している想像力の壮大な実験ともいえる「群島-世界論」と、以前『横浜逍遥亭』の中山さんが深遠な感想を書いていらした伊藤憲監督による詩人の吉増剛造さんの奄美および沖縄への旅を追ったドキュメンタリー映画『島ノ唄』への深い共鳴を記しながら、とても気になることを書いている。(今福さんの「群島-世界論」の批評は今年の1月からずっと私の課題であり続けているし、『島ノ唄』はとにかくどこかで観たいと思い続けているがまだ実現していない。)
「島と北回帰線」(雑誌『すばる』10月号)
(これは、今年5月に開催された日本英文学会第78回全国大会でのシンポジウム「南の周縁(シマ)から問う”アメリカ”」での報告を再現するシリーズの第2回である。)

私が気になったのは、菅さんが暗示的に語るグローバルな<何か>のことである。それは一方では、「いま視界を閉ざし人々を押しつぶしているように見えるこの『現実』」そのものであり、私たちを「知らないうちにある種の流浪にまきこ」んでいる<何か>である。また他方では、それは地球儀を眺める視線の中でヘタをすると働きだしかねない「巨大な統一性の眼」の力であり、「地球の全体にいまも働きかけてい」る「何か人を現実に押しつぶそうとする大きな力」である。

菅さんが直接言及する「流浪」は国際的な移民、移住、亡命といった、日本国内に長年住み慣れた日本人にとっては縁遠いように思えるスケールの大きな移動だが、私は実は近年の「引きこもり」や「ニート」のような内側への流浪を強いる大きな力を感じるし、「ワーキングプア」の増加にも「格差」という国内的な視線では捉えられない、より一層深いレベルでの流浪を強いる大きな力を感じる。

菅さんは随分以前からそのような「ひどく黙示録的な気分にさせる」巨大な現実と力に対抗するための抵抗の言葉を鍛え、研ぎすまし続けてきた稀有な批評家であり、そのような批評的な活動をジャンルを超えたエグジログラフィ(exilography=exile+graphy)と名付け、「現実を別のかたちで想像すること」の大切さを訴え続けてきた。しかし菅さんはこの報告ではある種の苦い認識を書き付けている。

文学とその周辺で行われる読み書きの作業が、そんな圧倒的な力に対抗して何をできるのかは、よくわかりません。

しかし、すぐさま彼は次のように一つの(唯一の?)希望を書き添えてもいる。

ただ、この巨大な統一性の眼から逃れるためには、もういちど小さなスケールへと、意志的に逃げてゆく必要があるようにも思います。大陸ではなく島、すなわちごく小さな場所へ。それはむかしからあった自明の「狭さ」とは別の、ひとつ別の経験を迂回した上での「狭さ」です。この狭さ同士の無根拠な連結によって、何か人を現実に押しつぶそうとする大きな力に対抗する、抵抗の線がひけるかもしれない。個々の島とは、そこに住む人にとっては息苦しいものでしょう。移動とは特権であり、途方もない贅沢なのかもしれません。でも自分の生を作りかえようとするとき、人は島を出て別の島に入り、島と島との連結からつぎに踏み出す一歩を探る必要があるのではないか。ときどき、そんな風に思うことがあります。

この亡命的希望は一方では「引きこもり」や「ニート」の袋小路に風穴を開け、他方ではウェブ進化の核とおぼしきオープンソース精神にも連動しているように感じる。オープンソースとはウェブ進化における「希望的怪物(hopeful monster)」なのかもしれない。