リヒターの灰色の絵画

以前言及した『GERHARD RICHTER ゲルハルト・リヒター』所収の林道郎氏の論考「灰色の絵画」を再読した。
「リヒターの絵画においてグレイという色彩(あるいは非色彩)が特別の意味をもっている……」と書き始められる林道郎氏の論考「灰色の絵画」はグレイ、灰色に関する常識的な文法と意味論の圏域からなんとか抜け出そうと奮闘していることに気づいた。

リヒターは、可視性と不可視性の境界とその不安定さにこそ関心があるように見える。(p.74)
リヒターの絵画を見る経験は、見えないものの残影が眼底をふとよぎっていくような経験なのだ。(p.74)
何かしら不可視のものの残影(=イリュージョン)を宿すリヒターのグレイ・ペインティングの構成原理はしかし、単純きわまりない。その態度は、自らの感性や理性によって絵画をつくるのではなく、絵画上に何かを「生じさせる」ために、意図的に、ほとんど数学的とも言える他者的な方法を利用するというものだ。(p.75)
自らの趣味や感性の限界を超えるために、何か中性的で他者的なシステムやプロセスが導入されている。そういう方法を介在させることで、自分の理解を超えた何ものかが絵画として現象することを彼は待つのだ。(p.75)
……もはや「私」に所属しない……(p.76)

「私」が与り知らぬモノが「私」を通過して「私」に所属しない絵画として現象することに立ち会う実験。それがリヒターの灰色の絵画が持つ特別な意味であるばかりでなく、私たちにとっての「灰色」という色彩(非色彩)が持つ特別の意味でもあることを、林氏の論考は示唆していることを再認識した。

灰色、グレイがひとつの色彩であると同時に「非色彩」でもあるのは、それが十分に明るい場所ではたしかに他の色彩から区別され独立した一つの色彩として知覚される一方で、十分に明るくない場所では、すべての色彩がそこに落ちていきもはや相互に識別できなく成り始める知覚の境界ないしはゾーンでもあるからである。そしてその知覚の境界、ゾーンとしての非色彩の灰色、グレイとは、黄昏、薄暮、薄明、twilightと呼ばれる<時>の境界、ゾーンにも深く関係している。それは昼間に君臨する視覚的にはっきりと分節され、重く意味づけされた世界の輪郭がぼやけ、視覚以外の感覚と知覚がにわかに働きだし、昼間とは異質な異形の世界が立ち上がり始める時である。「眼」では捉えられないモノたちが蠢き出し、「私」の輪郭も崩れ始める。それが非色彩としての灰色、グレイがもつ特別な意味である。グレイ、灰色のもつさらに深い意味論、詩学を明らかにするには、少なくともW.B.イエイツの『ケルトの薄明』を参照しなければならないだろうが、それにしても、例えば、照明の落ちた薄暗い美術館で、ほとんどすべての絵画がその色彩を失って灰色の境界、ゾーンに落ち込んでいき、それと識別できなくなり、存在しないも同然になる中で、リヒターのグレイ・ペインティングズ、灰色の絵画たちだけが「微妙な発光体」(p.74)として、その薄明の中に輝き出す様を想像してみることは刺激的である。