ひとつの答えが降臨した

明日から「情報デザイン論」という新しい講義が始まる。ITエンジニアでもデザイナーでもない哲学者(?)の私が「情報デザイン論」で一体何を教えるのか、と訝(いぶか)しまれるかもしれない。当の私自身が考え込んだ時期もあった。

しかし当初から、私には直観があった。情報、ITそのもののプロではないし、デザインのプロ、なんとかデザイナーの肩書きもない私だが、教えるのは、あくまで「情報-デザイン論」、すなわち、情報とデザインの間のわずかな隙間が私の勝負の舞台だ、と。その隙間に手を差し入れ、身体ごと潜り込み、隙間を大きなスペースに押し広げることができそうだ、と。

もちろん、いわゆる情報デザインの諸実例やそれらに関する客観的な知識はいくらでも披露できる。参考図書、参考サイト、参考…、などいくらでも紹介し寸評できる。しかし、そんなことは、学生が自分でいくらでもアクセスできる情報にすぎない。情報源へのアクセスをサポートするだけでは、「講義」の名に半分も値しない。そう考えた私は、情報とデザインの間の隙間を広げ、そこに今まで誰も見た事のない哲学的風景を描いてみせようと決意した。

プロの視点と経験については、付き合いのある本物のプロ、LaPTの小賀さんや濱谷さん、t-artworksの田辺さん、giftの平岡さん、なんかをゲストとしてお迎えして、トークをしてもらおう、と考えていた。(勝手に名前を挙げて、ごめんなさい。昨年から非公式のオファーはしていましたが、近いうちに正式のオファーをいたしますので、どうかお許しを。)

実は、春学期に伏線のようにして「情報文化論」をやった。制度的には完全二期制なので、形式的には両者は独立しているのだが、内容的には深く関係し、履修者もダブりが多い。その「情報文化論」で私は学生たちと、自分でいうのも何だが、壮大な実験、を試みた。

何をやったかというと、宇宙創成、ビッグバンから、宇宙史、生命史、人類史とたどり、現在、インターネットの誕生と普及に至るまでを、一本の情報ハイウェイに見立てて、学生たちと疾駆(しっく)したのである。疾駆したという実感、消尽の感覚があった。

準備は前代未聞の大変さだった。毎回直前まで講義としては異例の大量の資料の準備、作成に追われるなかで、話す内容を90分間にふさわしいシナリオにまで落とし込む、というか、練り上げる作業に没頭した。他にも講義と演習を抱えている。会議はある。風太郎の散歩はある。子供の送り迎えはある。そんななかで、毎回息も絶え絶えになりながら、大量の資料を抱えて教室に駆け込んでは、90分間、怒濤のようにしゃべる、ということを半期続けた。

私としては反省点は山のようにあったが、学生たちの反応はとても良かった、素晴らしいレポートが沢山提出された。しかし、さすがに私は疲労困憊だった。二度とこんな講義はできないだろう、とそのときは思った。

そんな春学期の「情報文化論」では、「自分」のことを良く知るために必要な回り道として、とにかく外側で起ったことをビッグバンからインターネットまで、情報の観点から、見通してしまう、ことに懸けた。そういう外側に意識を猛烈に集中することを通して、間接的に、「自分」を変えるきっかけを学生ともども持つことを狙っていた。

直接は与(あずか)り知らぬ膨大な情報も含めて、とにかく気が遠くなるほどのスケールの時間と空間のなかで起る出来事の複雑な連鎖の消息のひとつの結果として、今ここに「私」はある、そんな感覚、感受性の大切さをひとりでも多くの学生に伝えたかった。しかし、それはある意味で余計なお世話だったのかもしれない。現に、数十億光年彼方の銀河誕生の美しい写真を「見る」ことの不思議と感動を語る学生さんが多かったことに、私は感動したりした。彼らは私よりよっぽど感受性豊かじゃないか!

私は一年間の講義プランの中で、春学期の「情報文化論」は自分がそこで成長する土壌を耕すことと位置づけ、秋学期の「情報デザイン論」はいよいよ自分を成長させる具体的方法を身につけ、実践することと位置づけていた。が、繰り返しになるが、「情報」、「デザイン」、「情報-デザイン」をどう捌(さば)きながら、私独自の料理にまで仕上げられるか、はっきり言って、当初あまり自信はなかった。一般論に逃げてお茶を濁そうと思えばいくらでもできる。しかしそれだけは哲学者の私がやるべき講義ではない。そこはやはり、もっと深く切り込んだ視点とそこから見えてくる新しい風景を学生たちと共有できなければ、何もしたことにはならない、といよいよ真剣に考えるようになっていた。

以前から、少なくとも、変な言い方だが、情報の本質は「情報」にはなく、デザインの本質も「デザイン」にはないことは分かっていた。流儀としても「情報」という言葉を鵜呑みにして使う議論は使い物にならないし、「デザイン」もしかり。むしろ、「情報」や「デザイン」とは無縁のような目立たない流儀が筋金のように貫かれている世界にこそ、実は「情報」や「デザイン」の本質、もっとも大事なことが隠されているに違いないという確信的直観を持っていた。それは何なのか?そこを見極めておくことが、「情報デザイン論」の核心になると私は強く感じていた。

そういう意味では「情報デザイン論」という名前に惹かれて履修するかもしれない多くの学生の淡い期待や常識をまずは巧く快く破壊しなければならない。それが最初のしかも最大のハードルになる、と私は読んでいた。そこを巧く乗り越えられれば、後は学生たちの力を信頼すればいい。

それにしても、「情報デザイン」の核心、それは一体何か、どこにあるのか。もう1年くらいアタマの片隅で転がし続けて来たこの問いに、最近まるで必然のようにしてひとつの答えが降臨(こうりん)した。

自画像、self-portraits。

そこに「情報-デザイン」の根源がある、そう私は確信した。後は、展開あるのみ。
そういうわけで、ええと、331名の履修登録した学生さん、明日から始まる講義をお楽しみに。3001教室ね。