写真と鬱

撮らなければ忘れられるのに、写真てえのは、忘れさせないためのものなんですよ…

という10年前の荒木経維さんの言葉が深く印象に残っている。
都電荒川線の終着駅三ノ輪橋のどこかの喫茶店で、吉増剛造さんに向かって、不図口をついて出た、しみじみとしたトーンの言葉だった。

以前にも告知したが、私が勤務する北海道は札幌市にある札幌大学で今月30日に、その荒木さんの講演会が催される。予想に反して、500人の定員にまだかなり満たないという。

忘れっぽいという才能を授かったと思っている私は、そのお陰で鬱病を免れているような気がする。先日、二人の学生と「鬱談義」に花が咲いた。一人は高校時代からつい最近まで正真正銘の鬱患者だった子で、最近やっと「普通の生活」に復帰したという経歴の持ち主。もう一人はいつ鬱病になってもおかしくないという自信をもつ強者(?)。それに「うつ」をちゃんと漢字で書けることを密かに誇っているこの私。花が咲いたのは、鬱っていう漢字、いかにも鬱蒼としてて、見るのも嫌だよね、という話題からだった。二人は鬱を漢字で書けなかったので、私は大辞林を引っ張り出してきて、これだよ、これ、と言って、三人で「鬱」をしげしげと眺めた。そして、いかにして鬱状態から脱出するか、あるいは手なづけるか、を巡って、アイデアを出し合った。抗鬱剤は別として、自然、ある種の音楽、といったあたりが抗鬱効果の最有力候補だった。

なんでもかんでも平等に記憶してしまい、忘れられない状態が鬱の一般的な定義だと思う。その意味では「忘れる」ことは鬱脱出の基本線だと言える。しかし、どうやれば、自在に忘れることができるようになれるのか。酒に溺れてしまうのでは、元も子もない気がするし、麻薬だってそうだ。自力で自在に脳内物質セロトニンドーパミンなどを分泌させる技を身につける学習プロセスが、東洋には古来あったような気がするが、その記憶さえあやふやなほど、私は忘れっぽい。これでは、二人の学生にも見切られそうだと思うが、そういう思いの記憶は不思議と忘れられないのは、なぜだろう?

30日の講演会で、もし荒木さんと話す機会があったら、どうして撮っちゃうんですか?と尋ねようと思う。