沖縄の詩人たちとの出会い:奄美自由大学体験記7

具体的な人との出会いをこのようなブログに書くことは難しい。単純なプライバシーの問題だけではなく、ネット特有の「負の側面」をあらかじめ十分考慮しておかなければならないこともさることながら、そもそも出会い自体が、本質的に容易に流通するような言葉にならないような何かを核心に持っているような気がするからだ。下手に言葉にしてしまうと、その大事な何かを殺してしまう、そんな気もする。

うまく言葉にできないが、それがその後の人生の大切な糧になる、そんな出会いを私は奄美自由大学で、何年分も持つことができた。今福さんを通じて神様に感謝したい。奄美大島で初めてお会いしたのに、決して忘れることのできない記憶の一部となったすべての方々のお名前をここに列挙したいくらいだが、それは慎もう。

ただ、やはり、私が奄美自由大学に持ち込んだ最大のテーマであった「記憶」をめぐって、非常に深い刺激を受けた出会いの貴重な体験の輪郭だけは、書き記しておきたい。まず沖縄の詩人たちとの鮮烈な印象を残すことになった出会いがあった。

沖縄から漕ぎ着けた詩人の会「KANA」同人の高良勉さん、真久田正さん、おおしろ健さん、桐野繁さんは、誇り高き戦士のような方々だった。10月6日(金曜日)、すでに始まっていた奄美自由大学の「授業」の途中で、お一人ずつがそれぞれの流儀でどこからともなく出現し、その後の巡礼を共にした。

眼光鋭く親分肌の高良勉さんとは、実はすでに1週間前に札幌大学で会っていた。文化学部主催の「北方文化フォーラム」での講演「琉球独立論」開始直前に、同僚の石塚さんに伴われた高良勉さんとエレベーターで偶然一緒になったのだ。私は演習があったために、その講演には出席できなかったが、奄美大島での再会を約束したのだった。奄美滞在中、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』に登場する白ウサギのように、思わぬところから出現し、見知らぬ場所へ誘ってくれていたのが、高良勉さんだった。初日の夜、名瀬の奄美民族博物館の民家での朗読会では、私は「琉球語」の洗礼を受けた。その後の懇親会では、私がいたく気に入った「喜屋武岬」という詩の「日本語」では次のような一節:

怨み・悲しみ・怒りを
一つ一つ打ち砕き
心の奥深く沈める
喜屋武岬よ

の「琉球語」を習った。

うらみん・あわりん・ちむむげーいん
てぃちなーてぃちなー 割いてぃ砕ち
胸内ぬ底なかい しじみーんどぉー
ちゃんぎちよー

私が記憶の問題を考えていることを知った高良勉さんは私に今は失われた口承(オーラル)世界の最後の人だったというおばあさんの途方も無い独特の記憶力のことを語ってくれた。唄を優れた想起のトリガーにしたような非常に魅力的な記憶術が駆使されていたようで、高良勉さんの琉球語の詩もまた、その血脈をしっかりと受け継いでいるように感じて、そんな話で、黒糖焼酎を酌み交わしながら、盛り上がったのだった。

初日だけチャーターされたマイクロバスに途中から乗り込んで来た大柄でサングラスをかけた強面の人がおおしろ健さんだった。最初は怖そうな、近寄りがたい雰囲気であったが、奄美博物館のトイレで連れションをしてから、とても親近感を覚えるようになった。夜の朗読会では、その体躯全体を見事に鳴り響かせるような朗々した張りのあるバリトンの声にによる「清一伯父」という、とてもその場では辿り切れない幾筋、幾層からもなる重厚な詩=テクストの朗読に私は圧倒された。

同じマイクロバスでその後偶然隣り合わせ、どちらからともなく自然と気軽に世間話をした真久田正さんは「船長」と異名をもつ、現に海技士(航海士?)の免許も持つ、石垣島ご出身の、最初はもの静かな印象の方だった。しかし、詩の朗読会ではその印象はひっくり返った。私には百パーセント「意味不明」の、しかしとても魅力的に響く諸方言、オモル語や八重山語を駆使した踊りも交えた物凄い強度に満ちた朗読=パフォーマンスに私はただただ見入り、聞き入るしかなかった。朗読会でも偶然隣あわせた真久田正さんは、なぜか最新の御著書、『真帆船のうむい』を私に謹呈してくださった。唐突なことで戸惑ったが、有難く頂戴し、懇親会の席では、サインも頂いた。その詩集から、私は素敵な言葉を学んだ。「さらめき」という。

「さらめき」とは、心地よい海風が吹くこと(『おもろさうし』巻十三、780他)。
『混効験集』には「さらめけば、風がそよそよと吹く事なり(1024)」とある。「さらめき」はその名詞形。
現代用語の「新更」や「真っさら」に通じる語感がある。

以上のお三人とも、私より年配。そして最後に出会ったのが、私より若い桐野繁さん。内に秘めたマグマを表にはそのままは決して表さず、非常に抑制の利いた端正な言葉に、底知れぬ記憶をスマートに定着なさった2編の詩、ご自身のおばあさまを詠った「茶の木」と、生まれたばかりの娘さんを詠った「みどり」を、淡々と見事に朗読なさった。後者には「命名」という人間の原初的な行為に対する深い哲学的洞察を私は感じて、非常に驚いた。