映画はいうまでもなくスライドショーだった

2006-10-15 のエントリー「珊瑚と宝貝、島尾敏雄さんの眼:奄美自由大学体験記9」でふれた島尾敏雄さんによる尋常ならざる映画批評「フェリーニのおののき」について、「書き切れていない」という思いがあった。何が書き切れていなかったかがやっと分かった。それは島尾さんが「映画という表現メディアの持つ『危険なおとしあな』」と指摘したことに関わる。

映画は「動く写真」である。フレーム・レート30として、一秒間に30枚の写真を私はいわば高速スライドショーで「見る」わけだ。一枚一枚の写真に「写っている」現実の情報量でさえ、ある意味で「手に負えない」のに、それが一秒間に30枚、90分の映画なら、30*60*90=162000枚の写真を「見る」という「経験」が、平均的な長さの映画を「見る」という経験の中身であるということになる。それは、2秒間隔のスライドショーに換算すれば、「見る」のに324000秒=90日=約3ヶ月かかる計算になる。一本の映画を「見る」体験とは一日8時間3ヶ月間かけて162000枚の写真を「見る」体験に、「情報量」的には等しいのである。この事実は何を意味するか?

私は映画が好きだ、と言いそうになる度に、ひっかかりを感じつづけてきた。映画は好き/嫌いという「楽観」で語れるようなメディアだろうか、何か恐ろしいものを秘めたメディアではないのか。そう、感じ続けて来た。しかし、その感じをうまく言葉にすることはできなかった。島尾敏雄さんの「フェリーニのおののき」を読みながら、私が感応していたのは、実は映画の「向こう側」にいるフェリーニの「おののき」ではなく、『甘い生活』という映画を見ている島尾敏雄の「おののき」の方だったのだと気付いた。

映画は「好き/嫌い」を超えた、有無を言わせぬ力で見る者を、「そこ」に引き込む。下手をすれば、「そこ」から戻れなくなるような力を映画は持つ。島尾さんはそれを「おとしあな」と表現したような気がする。私はいつも映画を見るのは怖いと感じ続けて来た。見たくないと思ったことも多々あった。途中で引き返したことも多かった。これ以上見ては危険だ、と感じたこともあった。なぜか?

映画は人生だから。しかもそれは他人の人生。私の人生ではない。他人の人生の膨大な情報に無防備に晒されることは、私の人生が「犯される」に等しい。それは「怖い」ことだ。だから、私は私の映画を作るしかない。美崎薫さんが「記憶する住宅」を作ったように。あの蓮見重彦さんが「あなたに映画を愛しているとは言わせない」という挑発的なタイトルのウェブサイトを公開している。その意味深なタイトルの意味、すなわち映画を「愛している」(好き)とは、生半可な覚悟で言える言葉ではないということが今になって分かる。

その上で、やはり、私は映画を愛していると、言いたい。私の人生を「犯す」ような映画を見たい。しかし、そんな映画はめったにない。だから、私は将来私の映画を作りたいと思っている。