日常の小さな廃墟たち:『9.11-8.15日本心中』を観て2

2001年9月11日の平和を象徴する快晴の空を背景に繁栄を象徴するツインタワーが崩壊していく未曾有の映像をトリガー(引き金)にして、1945年8月15日の同じように快晴の空を背景に平和と繁栄の道を邁進し始め、今日まで続く日本の戦後史の歪みをその根源から明るみに出し、それぞれの「正しい闘い」へと観るものを深く静かに暖かく鼓舞する。昨日観た『9.11-8.15日本心中』はそんな映画だった。

映画の中でも、また大浦信行監督と今福龍太さんの対談においても、印象的だったのは「廃墟」という言葉とそれが連想、想起させるさまざまなイメージとそれが孕む思想だった。何の変哲もない日常の光景の中に、「廃墟」を感受する「想像力」にこそ、「未来」あるいは「可能性」が宿る、とでも要約できる思想である。私が大浦監督に尋ねたかったことは、監督自身の日常におけるそのような廃墟感に関する具体的なお話だった。

私自身、最近ずっと続けている「記憶の実験」、見えるものの拡張とかなり意識的な追体験の反復によって、世界の非歴史的、非地理的な、大浦=今福的語彙を使うなら「神話的」な時間空間を次第に鮮明に感受するようになっていたからである。

もちろん、今福龍太さんがそうであったように、『9.11-8.15日本心中』という映画そのものに立ち止まり、その豊饒な細部を語り続けること自体、あるいは石塚さんがそうであったように、『9.11-8.15日本心中』の上映会を実現すること自体が、大きな手強い敵との「覚悟の要る闘い」であることはよく分かっていた。

しかしそれと同時に、それ以上に、私はそういう闘いを私のささいな日常にどのように接続したらよいのかということをずっと考えていた。大野一雄が、針生一郎が、重信メイ(命)が、金芝河が、鶴見俊輔が、鵜飼哲が、島倉二千六が、それぞれの持ち場で継続している闘いに相当する闘いを、大浦信行監督は「お金にはならない映画」によって継続している。それに相当する私の闘いは何か。映画の外の「日常」の中に映画に負けない闘いを持ち込み、継続させることについて私は大浦信行監督とじっくりと話したかった。

映画で示唆され、対談で明言された「廃墟」はやや抽象的で、そこからの具体的な思考と実践の展望には欠けていたというのが私の率直な感想だった。しかし、私は数日前からごく日常的にかなり自覚的に「廃墟」を感受し続けていたので、個人的な展望はつかめた。

今朝の風太郎との散歩で撮影した小さな廃墟たちである。私が「廃墟」として感受するものたちには数種類あるが、基本的に人工物が自然力、生命力によって浸食されていく「時間」の姿だと思っている。人工と自然のせめぎあいの姿と言ってもいい。ただし、最後の木に生ったままカビに覆われて行く梨は、生命そのものが一種の廃墟化する姿であると思う。



追記)
大事な事を書き忘れた。映画を観ながら、見終わった後も、「日本心中」という引っかからずにはいられない異様な言葉には、この日本という国を廃墟として感受し、心中する覚悟で抱きしめることの「果て」に見える「微かな希望」、ほとんど「絶望」と見紛うばかりの希望に賭けようとする苦渋の覚悟を感じていた。映画の中での針生一郎さんの苦しげな息づかいが耳に残っている。そして大浦信行監督の孤高の後ろ姿が。