映画の時間:『9.11-8.15日本心中』を観て3

昨日お会いした大浦信行監督の映画観は私の世界観とぴったり一致していて驚いた。大浦さんは人類は昔から映画を見てきたのだと言い切った。映画生誕100年とか150年と言われるのは技術の歴史でしかなく、映画の歴史は人類誕生とともにあるのだと。うつむき加減に語る大浦さんの言葉には深い所から湧き上がってくるような力が漲っていた。そんな言葉を聞きながら、私は自分が日々映画を見ているように生きていると感じていたので、すごく納得した。つまり映画とは時間のことなのだ。今福さんはしゃれて「時の形象」と言った。

『9.11-8.15日本心中』の物理的時間の長さは2時間20分ある。私は撮影フィルムの長さを尋ねた。80時間だという。撮影から完成に至るまでには5年かかっている。単純計算すると、大浦さんの5年間=43800時間の人生が80時間のフィルムに変換され、さらに2時間20分の作品に変換されたことになる。むろん、5年間にはそれまでの大浦さんの全人生が凝縮されているだろうし、同じことは最終的な2時間20分の作品についても言えるはずだ。つまり、『9.11-8.15日本心中』を見るという経験は大浦さんの全人生の凝縮された時間の形を見るということだと思う。

私は2時間20分を長いとも短かいとも感じなかった。それは、あっという間と言ってもいいし、永遠といっても大げさではないような奇妙な時間の経ち方だった。不思議な生暖かい光と空気にずっと浸っていたような気がした。それはおそらく2時間20分が大浦さんの全人生という映画の時間が流れていたからなのだと想像した。

蛇足ながら、映画をめぐって大浦監督自身、また今福龍太さんも多用する「神話的」とか「シャーマン」とか、ともすれば不必要にオカルティックな印象を与えかねない言葉に対して、私はすべて「記憶」の問題としてクリアに捉えることができると感じている。記憶の書き換え(追体験)と再生(想起)、そして記憶の組み替え、組み込み、等々として。もちろん、個人の記憶、集団の記憶、そして異質な系列の記憶も視野に入れた上でのことである。


『9.11-8.15日本心中』を観ながら暗闇の中でとった記録。

市場 生魚、こはだ、を食う 針生(目付き、存在感)
’53 日本展 河原温 「浴室」 戦後の「後」 朝鮮戦争
人間回復 人間 動物/機械/お化け 植物 鉱物
花鳥風月 日本的サイクルを壊す サドの目で外部を見る ルポルタージュ
山下菊二「あけぼの村物語」
日本国と日の丸
天皇制 資本主義 推進装置
天皇の名の下に戦争する(人を殺す)経験の意味
個人?
神が介入した現実?
予言的問題?

重信メイ(命) 壊れた人形 分身 心の故郷
人形劇(韓国)
テロリストの母 28年間国籍なし
自己探究 死
桜 あけぼの村のバス停
国際的ジャーナリストになる

水上家屋 少女 画家
遊園地の針生 見世物小屋 人形

’43 藤田嗣治アッツ島玉砕」 近代 民衆 器官なき身体

9.11以降の状況
横尾忠則 ツインタワー崩壊は未曾有のアート 超えるもの?
村上隆 資本主義的ゲーム
大国にたいするテロリズム側の必然性
アメリカ下の日本
コソボ 湾岸 アフガニスタン イラク
アウシュビッツ以来 個人的記憶の抹殺システム
人間関係の物語の構成を破壊するシステム
テクノロジーによる殺戮 野蛮の非現実化
野蛮を視野の外におくテクノロジー
廃墟 想像力 未来

アメリカ国内における闘い アメリカ兵の犠牲 
本当の敵はアメリカでも、国家でもない? 個人の抵抗)

鶴見俊輔 死者との対話
感情の自給 恨(ハン) 金芝河(キム・ジハ)

人類史上のすべての死者との対話 新しい歴史

金芝河 歴史ではなく神話 ファシズムは政治的美学
科学(技術では?)/超越的、解釈学的革命
知識の限界
民衆と伝統/個人と記憶
恨 暴力+「白い影」

重信メイ(命)と金芝河
(鎌仲ひとみ監督『六ヶ所村ラプソディー』、『ヒバクシャ』
日本国内で進行する見えない暴力と世界的な死の連鎖)

たんなる個人から「世界人」へ
レバノンの木々
T.E.ロレンス 「匂い」への感受性
音楽、リズム 河の流れの多様性 宇宙、生命のリズム
経済、政治
言葉の限界 「音楽」?

<対談>
前回作 針生の独白
今回作 対談を重ねる 言葉の無化 映画の構造 神話的時間 人類誕生以来の「映画」
神話 破壊と再生
針生の重そうな鞄 狐のような目付き、地を這うような歩き方
重信メイの分身としての少女 踵を踏んだ靴の穿き方
 
金欠の無為の時間
時の形象としての映画
歴史の重力 浮力
映画の内と外
到達できない希望
次回作 筑豊 沖縄 奄美