電子化されない記憶

美崎薫邸「記憶する住宅」を訪問して驚いた、というか、深く共感したことのひとつは、案の定、美崎さんはデジタルオンリーの人ではなかったということだった。もちろん、美崎さんは並のデジタリアン(?)ではない。世界中を探して、美崎さんの他に、家一軒建つほどの私財を投資して自宅をデジタル記憶貯蔵庫にしている人間が他にいるだろうか。ちなみに美崎さんのところには住宅メーカーからの講演依頼や相談もある。具体的な模様は、『横浜逍遥亭』中山さんの報告を参照のこと。そこまで、デジタル化、電子化に徹している人ですら、であるが故に、本当に非デジタルでなければならない、絶対に紙でなければならない記憶、記録の究極の姿をつかんでもいた。それは自作の書物だった。基本的に電子化された紙媒体の記録はすべて破棄される。しかしどうしてもそうできないものがある。中山さんが報告しているように、

本当に取っておきたい本は20、30冊程度に過ぎないという美崎さんだが、そういうとっておきの本には特別の愛情が注がれていた。皮革装幀を施されてステンドグラスの箱の中に飾られているのは川原由美子の『KNOCK』。右手には東急ハンズ仕入れた皮革が新たな作業を待っている。
2006/11/04 (土)『記憶する住宅』に美崎薫さんを訪ねる(2/2)

そして、もう一つ私が共感した美崎さんのこだわりは「月」だった。はりぼてのような新月に腰掛ける若い男女のイラスト(川原由美子の『KNOCK』のイラスト?)が大切に額縁に入れられ壁にかけられていた。映画『ペーパー・ムーン』の名も美崎さんの口をついて出た。あの映画ではまだ幼いテータム・オニールが詐欺師ライアン・オニールと親子を装って皮革装幀の聖書を売り歩くのだった。はりぼて=偽物だらけの世界の中で、本物の「心」だけは失わない秘密を描いた映画だった。

もちろん、デジタル=偽物、紙=本物という単純な話ではない。紙にも偽物はいっぱいあり、デジタルにだって本物はある。問題は絶対に紙でなければ伝わらない心、紙にしか遺せない記憶は何かということだと思う。