死のデザイン:時間のデザイン2

明日の「情報デザイン論」では「時間のデザイン2」として、さらに根源的な視点を学びます。題して「死のデザイン」。講義のエッセンスになる文章を掲げておきます。つらつら考えておいてください。文中、「島尾ミホさん」が登場しますが、これは、私が「日本」の自己イメージ=自画像という観点から大きな衝撃を受けた『島尾敏雄非小説集成1南島篇1』を読んで、ほとんど確信した事実を踏まえています。興味のある学生さんは過去の「奄美自由大学体験記」と題されたエントリーを参照してください。

死のデザイン

死を忌避しだしたときから、人間の生はやせ細って来た。具体的な死の姿から目を背けることが、生きることの根を奪ってきた。個々の具体的な死の姿に直面しなくてすむようなテクノロジーが戦争を拡大した。家ではなく、病院で死んで行くシステムが生活を本末転倒にした。

時間のデザインが重要なのは、私たちはみな例外なく死ぬからである。誕生から死へ向かう人生という時間を最も深いところからデザインするには、両端の誕生と死を正面から見据えなくてはならない。誕生はまだしも、死に関しては私たちは無知もはなはだしい。近親者の死さえ満足に弔うことさえできなくなっている。供養さえ。

供養とは、死者と相互に養い合うこと、深い対話を意味する。そうするためには忘れないことが必要だ。記憶。忘却に抗する記憶の想起が最低の条件になる。

栄枯盛衰の「栄盛」ばかりを追い求め、「枯衰」には一顧だにせず、「死」を踏みにじるようにして、日本人はせっかちに奈落の底へ邁進している。忘れている。死ぬことを忘れている。衰えることを、病むことを忘れている。衰病死という時間を最優先にしてすべてをデザインしなおさなければ、早晩日本は滅びるだろう。すでに滅んでいるとも言える。ゾンビは単なるフィクションではない。すでに半世紀前に、島尾ミホさんが日本本土で心を病んだのは、その頃の日本人がすでに彼女にはゾンビにしか見えなかったからに違いない。

空間や物体のデザインでさえ、そのような時間を見据えた上での、根源的に「時間のデザイン」であるかどうかが本質的な分かれ目になる。

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