何が「すべて」か:グーグル対美崎薫

美崎薫さんの「記憶する住宅」を一緒に訪問した中山さんが、眼を見張るクオリティの高さの大作「訪問記」を二度にわたって書かれた驚きが冷めやらぬ間に、今度は、私も注目していながら応答できずにいた同行したfuzzyさんによるビジネスに焦点を絞り込んだかなり先鋭的な問題提起をきちんと受け止めた上で、それを思想的な展望へと果敢に繋げようとする記事を書かれていて度肝をぬかれた。

fuzzyさんは、美崎薫さんがSmartWrite/SmartCalendarの「Smartプロジェクト」で標榜する「Smart」がいわば愚直な道具に留まり、ビジネス、サービスの文脈においてはグーグルの知能を備えたSmartなサービスに敵わないが故に、SmartWrite/SmartCalendarにも、グーグルを凌ぐ知能を備えるべきではないか、と問題提起していたのだった。
2006-11-05「SmartWrite/SmartCalendarは情報羊の夢をみるか?」

それを引き取って、中山さんはビジネスの土俵に拘泥することを巧みに避けながら、興味深い思想的な「グーグル対美崎」論を展開している。


  • コンピュータの能力を活用してデータや知識を最大限に活用したいと考える点でグーグルの人たちと美崎さんは似たような問題意識を持っているとは言えますが、グーグルが「広汎な普及=ビジネスとしての成功」の方向に突っ走るのに対して、美崎さんは夢を見る方向にゆらゆらとたゆたっていくのだとすれば、「グーグル対美崎」の図式をグーグルの土俵であるビジネスの世界で思い描いてみるのはあまり意味がないのではないかと思うのです。 そうではなく、「グーグル対美崎」がラジカルな意味をなすのは、あくまで思想の領域であるはずです。

  • グーグルやその競争相手が実現するだろう、目的に応じてあらゆる情報を検索し、最適な答えをお皿に盛って出してくるような世界と、美崎さんのように自分の体験にこだわり、「記憶」と「想起」という個人の可能性に真実を見いだそうとする世界がどのように交差し、融合していくのか、または反発しあって新たな思想を作り出していくのか、僕自身はそこに今けっこう大きな興味を抱いています。つまり、既存のβ版アプリケーションの普及という思考実験よりも、美崎さんの実践の普遍性について吟味し、あらためて本当に普及できるものは何かを考えていくことの方が先のように感じています。
2006/11/06 (月)「美崎さんの実践の普遍的な部分 」

ここには、「ビジネス/思想」という不毛な二項対立的な図式に捕われた思考を脱しようとする指向も感じられる。というか、そうでなければ、思想をテクノロジー=サービスに還元しようとしている節さえ見られるのがグーグルなのだから、テクノロジー=サービスも視野に入れた新たな思想が美崎薫さんのプロジェクトには読み取られなくてはならない。

とはいえ、それは容易なことではない。中山さんが示唆する「個人の可能性」、「思想の領域」、「美崎さんの実践の普遍性」、「本当に普及できるものは何か」に関して私が今書けそなことを書いておきたい。

中山さんが書いているように、「smartさ」に「グーグルvs.美崎薫」という正反対のベクトルがあるように、私は「ビジネス」にも同じ正反対のベクトルがある、生まれつつあるような気がしている。「はてな」の近藤さんが目指しているのも「ビジネス」における「非グーグル的な方向」なのではないだろうか。美崎さんの「夢想」は新しいビジネスの夢想、言い替えれば、未来の、理想のビジネスの設計にもつながるはずで、それは徹底的に非グーグル的なsmartさを貫く実践の中から創出されるしかないのではないだろうか。

私の見るところ、「美崎さんの実践の普遍性」は単純に「反グーグル」ではなく、「非グーグル」、すなわり、グーグルがやっていないことを実はやっているところに潜んでいる。グーグルが「これがすべてだ」と標榜するかもしれない世界に対して、そこには決して記録されない、しかし人間にとっては「グーグル的すべて」よりもずっと大切な「すべて」を美崎さんは見極めようとしているのだと私は直観している。中山さんの言う「個人の可能性」は正にそこに関係していて、グーグルのサービスには馴染まない特異な掛け替えのない個々人の経験こそが大切に記録され、個人的な想起や発想の資源となり、さらにはより高次の資源として共有されるような仕組みが生まれることが、「本当に普及できるものは何か」にたいする答えになるのではないだろうか。

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SmartWrite/SmartCalendarに関して美崎さんは「仕様書」を作っただけだと何度も語った。それによって実際に開発されるアプリは色々であっていいのだ、とも。実際に、SmartCalendarのWin版とMacOSX版は機能に違いがある。私は美崎さんがコンピュータという道具を「風を追う自転車」というイメージに近づけたいと語っていたことを思い出さずにはいられない。グーグルはどうみても原子力発電所だ。

私は一方では、根本的には自分にとって本当に必要な道具が真に「smart」なのであって、それは必ずしもSmartWrite/SmartCalendarでなくてもいいと考えている。しかし他方では、SmartWrite/SmartCalendarは「記録」と「記憶の想起」に関する未曾有の体験の蓄積の中から生まれた「赤児」のような瑞々しいツールであることを実感してしまった私は、それがまるで「生命の樹」ですらあるような不思議な愛着を覚えている。コンピュータのアプリケーションでこんな感覚を覚えたのは初めてだ。

ただし、今までの道具や環境に馴染んだ心身を新しいそれらに移植することはなかなか難しいし、SmartWrite/SmartCalendarに相当する「記録」と「記憶の想起」のための道具と環境を私は私で独自に「開発」しなければならないのではないかとさえ感じてもいる。つまり、私の「SmartWrite」はやっぱりモールスキンの手帳他であり続けるかもしれないし、SmartCalendarはどうしてもSmartCalendarでなければならないかもしれないということである。

私はSmartWrite/SmartCalendarに関しては「仕様書」が最大のポイントだと思っている。そこにこそ美崎薫さんが数十年に亘る実践を経て到達した地点が記されているはずだからである。したがって、理想としてはやはり私はその「仕様書」を検討して私だけの「SmartWrite/SmartCalendar」を「開発」すべきであると考えてしまう。こういう動きが一体どんな未来のビジネスモデルになりうるのか、なりうるわけがないのか、は私には想像がつかないが。それはちょうどウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を読んで、私は私の『論理哲学論考』を書かなければならないと考えてしまうことに似ている。