命名の謎2

昨日のエントリー「命名の謎:「シラタマノキ」問題は解決していなかった」で言いたかったことは、学名(生物学的分類名)のほうが和名より優れているとかいうことではまったくない。「1センチくらいの球形の白い実をつける低木」の名前が「シラタマノキ」であるか、「Gaultheria pyroloides 〜」であるかは、畢竟用途が違うだけで、その意味では両者は対等である。

ただし、「シラタマノキ」という名前によって、無視される「違い」を私はどうしても無視できなかった。それはその植物の個性、「クオリア」だったからだ。で、素朴な印象批評の言葉のような「シラタマノキ」という和名よりも、構造批評の言葉のような学名「Gaultheria pyroloides 〜」の方が、私の個人的な違和感を少しは解消してくれた、という話だった。

それでも完全に解消したわけでなくて、学名には学名の落とし穴があるように感じている。

私がこだわっているのは、対象物が「同じ」であるとか「似ている」とか「違う」とか感じたり、判断したりして、同じ名前をつけたり、違う名前にしたりする、人間の普遍的な営みの意義は何かということである。

大分以前から「薔薇の名前」という意味深長な言葉(ウンベルト・エーコ)や、つい最近では、美崎薫さんの「ものに名前をつけるのは本質的に無理だと思うのです。」という発言に強く感応している自分がいる。


今朝の散歩で見つけた第三、第四の「1センチくらいの球形の白い実をつける低木」の全容姿。

(つづく)