能動型検索、受動型検索、そして無意識型検索

「検索」と「想起」、それぞれのメカニズムと両者の関係に非常に興味のある私はエントリー 「いうまでもなく、検索とは想起のことである 」(2006-11-08)を書いた。そのコメント欄で、bookscannerさんは一口に「検索」といっても、先ずは少なくとも、「能動型検索」と「受動型検索」の二種の検索を区別するべきであるという卓見を書いてくださった。確かにそうである。

一般的によく使われている検索に関しても、二種に区別することができる。「WEBなら、ひとつはディレクトリ型検索で、もうひとつはロボット型検索」であり、「本なら、カタログ検索と全文検索」である。

表面的には、ディレクトリ型検索やカタログ検索は、すべてお膳立てされたパック旅行に似て「受動的」であり、ロボット型検索や全文検索は、行き当たりばったりの一人旅に似て「能動的」な印象を与えるかもしれないが、システム的には、「タグ」がついていなければ始まらないという点では「能動型検索」に入る。

他方で、想起にも二種が区別できる。「『あれっ、鍵はどこに置いたっけ?』という形で始まる想起」と「片付けものしてて『こんなのがここに隠れてた。なつかしいな』って感じで始まる想起」である。

また、美崎さんとの間で話題になっている「画像の検索」に関してbookscannerさんは、そもそも「画像って、本当に検索すんのかな?」という非常に本質的な疑問を提起してくださった。「画像を見て、それがきっかけで想起することはあっても、ある特定の画像を探したいっていう場面」ははたしてあるのか。「100万枚の画像があったとして、それをスライドショーで眺めて、それがきっかけでいろんな過去が現在に戻ってくる」ことは十分考えられるが、「タグつけて、検索可能にして、いつでもリコールできるようにしておく、ってのが、どんな用途があるのか」。

この疑問に対して、美崎薫さんは「ある」ときっぱりと答えた。そして大変興味深い「小首かしげて」や「「月モチーフ」などの具体例もあげてくださった。しかし、まだ、画像の能動型検索の意義は必ずしも明らかではない。

「画像って、本当に検索すんのかな?」という問いは解消していない。

(これについては別のエントリーで論じる予定だが、その要旨はだいたいこんな感じ。「写真はそれ自体すでに『世界』に対するタグあるいはリンクのような存在である。だから、基本的に『ただ見ればよい』。言葉で名前や説明を付けるのは蛇足である。写真の撮影者の意図を探ることなどということは無駄な意識であり、そこに写っているものを『ただ見ればよい』。それが正しいが写真とのつき合い方だ。写真を世界への各種の『窓』と見た立てて、世界の見方を学べばいい。写真には名前はいらない。」)

ところで、既存の、現行の画像検索についてみると、名前(タグ)をつけといてテキスト入力で画像を検索するのはカタログ検索に相当し、「指紋照合や顔照合(とくにFBIとかが犯人探しで使っているようなもの)、医療でのComputer Aided Detection」や「イメージ検索エンジンLike.com」で検討したLike.comの画像検索は、全文検索に近い。

bookscannerさんは、ご自分の画像とのつき合いかたに関して、「『受動型』想起のために、画像は使ってます。検索するよりは、たまに『パラパラ見てる』」という。また、Web 2.0的な画像共有サービスにおける画像検索のためのフォークソノミーによる「タグ付け」に関しては、画像は「おそらくそういう『能動的』な検索には不向き」である性質を持つが、しかし、「『いい加減なタグ』ないし『幅を持ったタグ』というのは、新しいつながりを産む可能性があって、それが新しい発想へつながる」可能性を示唆している。

そして最後に、実はbookscannerさんは「第三の検索」について書いている。

Googleで検索すると「なんだ、このつながりは?」というものが出てくるんですが、それも検索の一部なんじゃないか、って思ってるからです。たとえば、「bookscanner」というキーワードで検索すると、8番目くらいに美崎さんの「記憶する住宅」のページが出てきます。「アンカーテキスト効果」ってやつでつながったものらしいです。

だから、よく、googleとかで画像検索をしてますが、特定の画像を探すためじゃなくて、意外な出会いを求めてやってます。

「アンカーテキスト効果」に関して、bookscannerさんはすでに10月1日に一種の「発想装置」としての意義について明解に書いていた。

『グーグルが本の電子化で狙う「うまみ」の正体は』に応える(当面の最終)の中で書いていた。

もしかしたら、検索好きの人からすれば、アンカーテキスト効果やページランクなんてのは当たり前じゃん、って感じなのかもしれないけど、本当に知りたいのは、アンカーテキスト効果ってもんの存在そのものじゃないんだよね。むしろ、数多くある単語の中から、なんで、「本が本を読む」って単語だけが、Kellyさんの論文へつながったのか、って部分が、知りたかったんだけど、迷宮入りだな。こりゃ。

だって、そのアンカーテキスト効果は、「本が本を読む」なんて「正しい日本語」ではない言い回しと、ちゃんとした英語の論文との間に、窓を開けてくれたわけ。数打ちゃあたるかもしれないわけで、もし1500万冊の本が電子化されて、OCRで文字データ化されて、相互のリンクが機械的に付けられて、さらに部分的に読んだ人がタグったり、アンカーつけたりしたら、それこそ、「意外なつながり」というのが、あちこちで発生するわけでしょ。

そーすっとね、梅田さんが『ウェブ進化論』の138ページに「書けば誰かに届くはず」って書いてて、それを鵜呑みにして、この記を始めたbookscannerが、ちょっとしたことから、いろんな人とネットで交流してるように、「書かれてポツンと置かれた本も、きっとどっかの本に届くはず」なんだよ。そして、引用とか参考文献を介した「正当派のつながり」だけでなく、アンカーテキスト効果のもたらす「なんだ、このつながり」ってのが出てきて、新しい発想につながっていくんじゃないかな、って思ったわけ。

そんで、そんな発想装置として機能するんだったら、たくさんの人がわんさか押し寄せるだろうから、Googleは高いお金出して、本を電子化しても、やっぱり元とれるよね。おいしいよね、って思う。

「アンカーテキスト効果」には個人の意図や意識を遥かに超える「意外なつながり」が「新しい発想」を生むというウェブの未来形が示唆されている。その同型の雛形を美崎薫さんは「記憶する住宅」で実践している。それは「無意識の検索」とでも呼ぶべき第三の検索である。