手と足の思想

これこそが、何かを深く知る、深く考えるということだと私は感動した。

  • 2006年(平成18年)11月23日(木曜日)朝日新聞朝刊(1面)コラム『いじめ(られ)ている君へ』作家高史明(コ サミョン)さん「自分支える足の声 聞いて」

31年前にひとり息子の真史君(当時12歳)を自死で亡くした作家の高史明(コ サミョン)さんは、「なぜ!」という自問をくりかえしながら、ご子息が遺した詩を奥様とともに『ぼくは12歳』という詩集にまとめた。

新編 ぼくは12歳 (ちくま文庫)

新編 ぼくは12歳 (ちくま文庫)

読者から多くの手紙が届き、訪ねてくる中高生も後を絶たなかったという。ある日、玄関先に現れた見るからに落ち込んだ様子の女子中学生に高史明(コ サミョン)さんは、こんな驚くべき応対をした。

「死にたいって、君のどこが言ってるんだい。ここかい。」と頭を指すと、こくりとうなずきます。私はとっさに言葉をついでいました。
でも、君が死ねば頭だけじゃなく、その手も足もぜんぶ死ぬ。まず手をひらいて相談しなきゃ。君はふだんは見えない足の裏で支えられて立っている。足の裏をよく洗って相談してみなさい。
数カ月後、彼女からの手紙には大きく足の裏の線が描かれ、「足の裏の声が聞こえてくるまで、歩くことにしました」と書かれてありました。

こんな素晴らしい救いの手の差し伸べ方を高史明(コ サミョン)さんは息子さんが遺した詩から学んだのだった。

ぼくだけは
ぜったいにしなない
なぜならば
ぼくは
じぶんじしんだから

高史明(コ サミョン)さんは、暗闇の中で微かに光りを放つ信号のような何かを「じぶんじしん」という言葉に感じた。

思えば、真史が最後までこだわった「じぶんじしん」とは、足の裏で支えられた自分ではなかった。そのことに気づかせてあげていれば……。

(中略)

切羽詰まった時こそ、足の裏の声に耳を傾けてみてください。

私は「自分自身」ということばには、頭が見失いがちな「身」が隠れていることに気づかされた。また、今年になってから朝と夜の散歩ではできるだけ底の薄い靴を履いて、足裏で地面の感触を味わうようにしてきたことや、目で見るだけでなく、手と一体となったカメラで「見る」ことにこだわってきたことの意味にも気づくことができた。頭を暴走させないために、手と相談しながら足裏の声にも耳を澄ます。