まるで落ち穂拾いのように

片岡義男著『ラハイナまで来た理由』(同文書院)に「まるで落ち穂拾いのように」と題された印象的な掌編がある。
それは、ハワイの日系社会、ホノルルの戦後の日系社会、最盛期は1945年から1955年までの十年間、その後、1960年代までは、目に見える具体的な形で機能していたという社会が消えていく様を象徴的に描いたものである。その日系社会は、

多くの一世たちがまだ存命で、二世の人たちがちょうど働き盛りの年齢だった時代。ハワイという固有の場所で、アメリカのものと日系のものとが、ちょうどいい配合で重なり合い、融合していた時代。そしてそこに、ハワイの風味が絶妙に効いていて。ほんとによかったわ、あの時代は。
(197頁)

と「僕」の姉が語るような「時代」だった。

そしてその社会=時代はどのように消えていくか。

人は他界していく。音声を永遠に発しなくなる。言葉が消える。ひとり、またひとり、このようにして音声による言葉が消えていく。言葉によって作られていたものすべてが、ともに消えていく。
(198-199頁)

これを読んだ時、私は他界した父母、祖父母、叔父とともにあったときの世界は、たしかに彼らの声=言葉によって作られていたような気がした。彼らが写っている写真を見る度に、彼らの声が蘇る。いつ私に呼びかけるかわからない声が行き交う世界で私は私の土台を作ったような気がする。変な言い方だが、私は彼らに呼びかけられうる存在として、彼らの声が谺する見えない器のような場所に見えない根をおろしていたのではないか、と思った。