エグジログラフィ:非本質的所属

以前、ウェブ進化をどう見たらいいかという文脈で「エグジログラフィ」について書いた。
「ウェブ進化とエグジログラフィ」http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20060915/1158285386

昨日から、家族あるいは共同体について考え始めていて、再び、エグジログラフィの問題が浮上してきた。

移民や亡命者の自伝のことを、彼ら/彼女らの世界への所属の仕方とアイデンティティを巡る深い経験の記述という意味で特に「エグジログラフィー(Exilography)」と呼ぶ。Exile(亡命)+Graphy(記述)。このエグジログラフィに関しては長年エグジログラフィの翻訳や批評に携わって来た菅啓次郎さんの話を聞くのが良い。書籍としては『コヨーテ読書』(青土社)が示唆に満ち満ちていてよい。

コヨーテ読書―翻訳・放浪・批評

コヨーテ読書―翻訳・放浪・批評

ここではウェブ上の記録にリンクしておきたい。

  • 異質な世界との衝突の意味、「世界」そのものの複数性をよく考え、それを自 分にとって不自由を強いられる言葉で手探りで綴ったのが、かれらの文学だ。これを 「エグジログラフィー」(エグザイルの記述)と呼ぶことにしよう。

「「英語」という犬を道連れに」http://www.cafecreole.net/library/dog.html

  • 移民の記憶の書(エグジログラフィー)

「破片と図柄」http://www.cafecreole.net/library/coyote12.html

  • 現代における一般エグジログラフィ(移民・亡命といった経験の記述)

ピジンと文学」http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/lcs/kiyou/17_1/083-94_suga.pdf

私の理解した限りでは、そのようなエグジログラフィーを読むことは、私たちの日々の体験を深く捉え返すことに繋がる。なぜなら私たちはみな所属にともなう安定と束縛の葛藤のなかで生きていて、移民や亡命者はその極限を生きる者たちだからである。有り体に言えば、世界が大きく変化しつつあるときに、現在所属する組織への過度の帰属は、変化への対応を遅らせ、場合によっては、組織と心中することにもなりかねない。何が起こっても、個人として生き抜いていける思想と知恵を身につけることは急務といえるだろう。

エグジログラフィを読むことで私たちは結局は何を目指し、何を学ぶことになるのか。この重要なポイントについても、菅さんの言うことに耳を傾けよう。以下の引用はすべて次のコラムからである。
「Two Home Islands」http://www.cafecreole.net/library/coyote3.html


驚くべきことに、エグジログラフィは「シヴィリティ(礼儀正さ)」と深く関係する。ただし、「新たなシヴィリティ」である。

エグジログラフィを読むことによって、われわれは集合的に、ある新しいシヴィリティを探っているのだ、と。シヴィリティ。丁寧さ、礼節、市民性、公民性。それ自体ははかなく、いかにも頼りない言葉だ。ぼくがいおうとしているのは、ただ一つの、そうと決めてしまえば他の所属可能性を排除することになるような固い所属の仕方の、対極にあるものだ。このシヴィリティとは、ある国籍への所属を前提として語られる国際主義とは、異なっている。もちろん、今日の世界でわれわれは国籍をさっさと離脱するわけにはゆかないし、国家によってしばられあるいは守られ、国家単位の社会の中になんらかのかたちで住みこむという生き方を捨てることもできない。しかしそうした国家主義+国際主義の世界に重ね描きされた、突発的な出会いと葛藤の現実を、われわれの多くはいたるところで実際に生きている。

このような「新たなシヴィリティ」が従来の「コスモポリタニズム」と決定的に異なるのは、前者のより深い「非所属性」の故である。

コスモポリタニズムという用語は、すでにあまりに色褪せてしまった。それはきわめて堅固な「私」が、普遍的で惑星的で避けがたく抽象的な、一個の「都市」に所属すると主張する。その惑星的都市−−ぼくの呼び方でいえばエキュメノポリス−−を背後から支えているのは、いうまでもなく世界化した資本=物質=情報流通だ。コスモポリタニズムという用語を避けてぼくがそれを「新たなシヴィリティ」と呼ぶのは、それが個々 の一回かぎりの状況の中で、その場で、異邦人どうしの交渉の中で、探られなくてはならないからだ。

そして、さらに驚くべきことに、「新たなシヴィリティ」は古くて新しい「ホスピタリティの原則」に深く繋がっていた。

それをホスピタリティの原則といってもいい。人をうけいれること、手をさしのべること、手を貸すことといった、大昔からそう口にすることすらなく行う人は行ってきた何かは、現代の世界で、いよいよ大きな可能性と重大な責務をもつ。そうした原則の発芽を人の中に育てるのは、異質の隣人たちの生きてきた過去をうかがうこと以外にはない。

そのために、菅さんはこれまでにも大量のエグジログラフィを翻訳し、批評的に吸収してきたのだった。

エグジログラフィの翻訳者としてのぼくの作業に意味を求めるとしたら、それは異質なさまざまな声を「自国語」の中に反響させ、声の担い手たちの生の軌跡を、ある新しいシヴィリティのための、テクスチュアルな基礎へと織り上げてゆくこと以外にはない。このテクスチュアルな土台にふれるためには、だれもが自分の伝記や国家的・民族的おいたちの枠からわずかに踏みだして、その踏みだした素足に思い切って体重をかけてみなくてはならない。その土台がきみを支えてくれるという保証は、まるでない。けれどもその危険な賭けによってはじめて、われわれは集合的に、「何一つ共有 しない者たちの共同体」(アルフォンソ・リンギス)のための、いままさに出現しつつある倫理を探ることができるのだ。

やや唐突に登場する「何一つ共有しない者たちの共同体」(アルフォンソ・リンギス)という言葉は私の中では昨日書いた「縁もゆかりもない他人同士が心の隙間を埋めあって、家族になる」という言葉に正確に重なる。文学における世界認識の最先端の問題は実は身近すぎる家族という共同体の本質的問題にも繋がっている。

何も共有していない者たちの共同体

何も共有していない者たちの共同体