札幌、ほぼ快晴。暑い。

藻岩山。

昨日から、住宅街と原生林の上空をツバメ(燕, Barn Swallow, Hirundo rustica)が遊ぶように飛び交っている。かなり高速だし、曲芸のように頻繁に方向を変えるので、飛んでいる姿を撮影するのは非常に難しい。昨日はシャッターを数回切ったが、写っていなかった。今朝もダメもとの気持ちで7回シャッターを切った。その内の5枚にごくごく小さく飛行中のツバメが写っていた。いい打率だ。羽を開いた姿はブーメランを連想させる。

ところで、日本で(だけ)大正時代以来「ツバメ」が年増女に養われている若い男を指すのに使われるようになったのは、Wikipediaによれば、「女性解放運動家平塚らいてう(1886-1971)の夫となる、平塚より5歳年下の洋画家の奥村博史(1891-1964)が、運動の邪魔にならないよう、一時的に身を引いた際に、自分を喩えて「水鳥たちが遊ぶ池に迷い込んだ若い燕」と表現したことに由来する(瀬戸内寂聴の小説『美は乱調にあり』では、平塚が奥村をラブレター上で若い燕と形容したことになっている)」らしいが、そもそも奥村博史がそのように連想し喩えた一因には、ツバメには強い「帰巣性」が観察されるということがあるからだろう。ツバメは「前年と同じ巣を修繕して利用したり、巣が無い場合はその付近の別の個体の巣、もしくは前年営巣した付近に巣をつくる」という。

蛇足ながら、少なくともウェブ上では、平塚らいてうの陰に隠れて、奥村博史に関するまとまった情報は存在しないのが気になった。「歴史」が非常に偏った視点からしか語られていないという強い印象を持った。唯一興味深くもあった記述は、奥村博史が洋画家としてよりも、彫金家、宝石デザイナーとしての才覚と才能に恵まれていたらしいことが窺える次のような、東京国立近代美術館工芸館の「ジュエリーの今:変貌のオブジェ」という展覧会の記事だった。

海外から輸入されたジュエリーなどほとんど見ることのできなかった戦前期、「すぐれたグウとよきエスプリ」が与えられた納得のいく指輪が世の中にないという不満から、洋画家・奥村博史(1891 -1964)は、ジュエリーを制作するようになります。本来ジュエリーデザインを職業としていなかった奥村が、石を集め、それを切り磨き、土台となる金属の加工までを一貫して手がけるという方法で、指輪を制作するようになったのです。その原動力となったのは、美しいもの、美しい生活を創りあげようとするひたむきな情熱だったと言えるでしょう。美しい生活を希求する奥村の姿勢は、陶芸家、富本憲吉の共感を呼び、富本が焼いた陶器をブローチにした作品も生まれました。

この記事には奥村製作の指輪の写真も掲載されている。
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昨日午後撮影した、隣家の庭のモミジが影絵のように映る障子の窓。子供の頃の影絵遊びを思い出した。