藻南学園橋の下を真駒内川が流れる…:真駒内川を行く3

私は自分の(?)体のことをよく知らない。脳という臓器の「暴走」らしき動きにも振り回されるし、あちらこちらの不調にも悩まされる。他方、毎朝歩く土地のこともよく知らない。ただ、まだ一年に満たない経験しかないが、けっこう大切だと思っていることは、ただ歩くだけではダメで、ひとつには地面が直に感じられる底の薄い靴を履いて歩くのがいいということだ。体全体で衝撃を吸収しながら歩くことで、土地の「体」を感じることがはじめてできるようになる。できれば裸足で歩きたいくらいだが、それができないのが残念である。足や脚の調子が悪いときに、たまに、衝撃を吸収してくれる機能の優れた靴を履いて歩くこともあるが、歩いた実感は半減する。

一昨日、自宅からわずか10キロばかりを歩いただけで、随分発見があった。そのいちいちを書くことはできないが、自分の知らなさ加減に驚いていた。ちょっと範囲を広げただけで、知らないことはほとんど無限にあるようにも思われた。自分が住む土地については起伏ひとつとってみても、歩いてみなければなかなか分からないということを改めて痛感した。

川に沿って、時には川の中を、歩くことは大変気持ちのよいことだ。人だけが歩ける自然の道は感覚の楽園と化す。逆に車の走行のために砂利を敷いた道、アスファルトの道は半ば地獄と化す。ちょっと大げさかもしれないが、一昨日の帰り道は国道沿いのアスファルトの歩道を数キロ歩いただけでうんざりしたのだった。そのとき、アスファルト道を42.195キロも走らされるマラソン・ランナーたちを気の毒に思った。ちょうどその日の早朝は世界陸上の女子マラソンをやっていた。

川に沿って、人が居住し、道を作り、そのうち川に橋を架ける。河畔を歩いてみて、よく分かったことは、「川向こう」は人にとってはすごく気になるある種の別世界だということ。そしてふと思ったことは、両界をつなぐ橋そのものはどちらにも属すと同時にどちらにも完全には属さない両義的な場所で、橋の上に立ったときに湧き起こる胸騒ぎには人間が生きる世界の構造に関わる深い理由があるのだろうということ。アポリネール(Guillaume Apollinaire, 1880-1918)は「ミラボー橋(Le pont Mirabeau)」で人生をセーヌ河の流れに喩えて詠い上げたが、人生をミラボー橋に喩えたわけではなかった。真駒内川に架かる藻南学園橋を渡ろうとしたときに、「こちら側」には国道沿いに住宅街が広がり、「むこう側」の山林にはゴミ処理場があることにハッと気づいた。あちら側はこちら側での生活を支える無意識になっている。

それにしても、「藻南学園橋の下を真駒内川が流れる……」では、歌にはなりにくい。今後河や橋を命名する際には、もしかしたら将来「歌」になるかもしれないという可能性を考慮したほうがいいなどと馬鹿なことを考えた。