本当の境界はどこにあるのか

実名をもうひとつの匿名のように、フォーマルな物言いをカジュアルな物言いの一変種に、リアルを一種のバーチャルに、あるいはバーチャルを一種のリアルに、遊んでいる自分がいる。本当はどちらでもいい、とにかく、既存の境界づけはつまらないなあ、という独り言を噛み締めて、カラダを左右に軽く揺らす。

人それぞれ、色んな事情があって、抱えるものも違い、だから、境界付けも人それぞれでいい。「こうしよう、ああしよう」ならまだしも、「こうすべきだ、ああすべきだ」はご免被りたい。

猫のように生きられたら、とジョナス・メカスは言わなかったが、アンソロジー・フィルム・アーカイブズの「主人」はマキシという名の猫だった。「俺たちはマキシの奴隷みたいなもんさ、あっはっは」と笑いながら、メカスはマキシを愛し続けた。マキシが死んだとき、メカスはイースト・リバーのほとりで追悼の詩を読み上げた。偉い、と思った。

猫は、犬も、人間に勝手に付けられた名前のことや人間の生活のことをどう思っているのだろうか、とふと思うことがある。つまんないことにこだわったり、振り回されたりしていないで、私の生き方をよく見てご覧、そう言いたいのじゃないかとふと思うことがある。