回想と眠り

ひさしぶりに、レイナルド・アレナスの自伝『夜になるまえに』(asin:B0000A4HRN)を読んで、ジュリアン・シュナーベルによる映画(asin:4336039518)も観て、改めて三木先生に教わった生命記憶の回想ということを考えていた。

海岸の岩場で友人ラサロに「なぜ書く?」と訊かれたレイナルドは海の方を見つめたまま即座に「復讐のためだ」と答える。ラサロはそれ以上は訊かずに、海の方を見た。復讐の道具は紙とペン、あるいはタイプライターだった。そして復讐の方法は記録と回想だった。

その午後、ぼくは歩いて家に帰った。部屋に着き、一つの詩を書きつづけた。「六月に喘いで死ぬこと」と題した長い詩だった。数日後、その詩を中断しないといけなくなった。誰かが部屋の窓から侵入してタイプライターを盗っていったからだ。その盗難はぼくにはこたえた。その部屋にある唯一値のはるものというだけでなく、いちばん大切なものでもあったからだ。座ってタイプを打つことは、いまもそうだが、特別なことだった。そのキーのリズムに合わせて(ピアニストのように)着想が得られたし、キーそのものがぼくを導いてくれた。語句が海の大波のようにつぎからつぎへと生まれてきた。いっそう大きくなったり、小さくなったりしながら。また、ときには巨大な波となって、ピリオドを打つ間も段落をかえる間もなしに、何ページも何ページも充たしていったものだった。そのタイプライターは鉄製の古いアンダーウッドだったが、ぼくにとっては魔法の道具だった。(『夜になるまえに』161頁)

「魔法」のカギは「リズム」にあるのだと思う。回想のリズム。そして回想は眠りのなかにまで続くだろう。

夢と悪夢がぼくの人生の大半をしめてきた。いつもぼくは長旅の準備をするようにベッドに向かった。本、錠剤、水の入ったグラス、時計、明かり、鉛筆、ノート。ベッドに着き明かりを消すことは、甘美な忌まわしい約束に充ちたまったく見知らぬ世界に身をゆだねるようなものだった。(『夜になるまえに』403頁)

呼吸のリズム、母の胎内に響く脈動のリズム、海の波動、潮汐のリズムに、さらには地球の自転や公転によって生じる周期というリズム。私たちは恐らく眠りのなかで、そんなリズム、拍子に身をゆだねることで、動物としての記憶、植物としての記憶、そして地球の衛星としての記憶をつぎつぎと回想するのではないか。眠りは生命記憶を遡行する長旅なのかもしれない。