「世界ふれあい街歩き」を見て

日曜日の深夜のテレビ番組「世界ふれあい街歩き」(NHK)をときどき見る。旅をテーマにした番組としては異色の番組である。何せ、行き当たりばったりである。何に出会うか分からない。でも何かに出会えそう。そんなワクワク感に包まれた番組である。もちろん、編集は施されているが、オリジナルの素材が持つ未知の人や物事との出会いの強度が生々しく伝わってくる。

それを支える技術のひとつはステディカムというハーネス(安全ベルトみたいなやつ)で体に固定した、振動を激減する特殊なバネのついたカメラである。”異常なほど”*1滑らかな移動映像を撮ることができる。

昨夜の番組ではポルトガルの首都リスボンの街をステディカムの視線が彷徨っていた。石畳の坂道や階段の多い街。路地や通りで出会う人や犬や出来事がとても自然で、ついつい画面に引き込まれ、自分もその場に居合わせているような臨場感がある。こんな旅ならしてみたいと何度も思う。

番組プロデューサーの小谷亮太さんは番組紹介のコラムでこう語っていて、なるほど、やっぱりね、と腑に落ちた。

で、そんな時、こどもの頃「探検ごっこ」をしたのを思い出す。近所の未知の路地を次々のぞき、土手を隣町まで歩き通す。それだけで楽しかった。いつも乗る電車の途中の駅で突然降りてみたくなり、そこから家まで歩く。そういう時は「目的地」が無いから、色んなことが気になる。いつもと違う路地に入れば、電信柱の広告もいつもと違うし、ドブ板を踏む時になる音も、違う音。そんな細かなことが楽しかったりする。

この感覚、歩きながら発見する感じ! 目的の無いぶらぶらっとした旅! 歩くだけで楽しい「目的地」のない旅。そう! 世界中に路地があるのだから「世界の路地を探検ごっこ」みたいな番組を創りたい、っていうことでこの番組は始まったのです。画質のよいハイビジョンカメラで撮影すれば、きっと、いろんなものを発見できるはず! と。

でも番組にするのは、簡単そうで実は難しい。既に放送した20回近くを担当した10人のディレクターは「この番組はロケの最初から最後まで不安だらけ、もやもやした感じの連続だ」というのです。10人とも様々な番組で活躍するベテランです。

「世界ふれあい街歩きの“秘密”」

ところで、この番組を見るたびに、私は毎朝の散歩の感覚を思い出す。ステディカムの動きは、散歩の時の俺の視線と同じような動きを見せているなあと共感する。そして、一番興味深いのは、偶然出会った人のなかには、カメラに怪訝な顔を向け、自分の国や住む街をほったらかして、そんなことをしているお前は何者なんだ? とでも言いたげな厳しい視線を向ける人がいることである。当然である。そこに根おろした人々の生活からの眼差しがステディカムの動きを一瞬凍らせる。その瞬間が一番ぞくぞくする。心に深く刺さる。そこをどう受け止めて「旅=人生」に対するビジョンを深めるかが、この番組の作り手たちにも問われている。それはテレビ番組作りの土俵を超える問題かもしれないが。

そのあたりがこの番組に対して私が感じるかすかな違和感、一種の物足りなさではある。もちろん、見知らぬ国の見知らぬ街をあてどなく歩くのはこの上なく楽しいに違いない。リスボンに、あのフェルナンド・ペソアの歩いた=生きた街に行って、歩いてみたいと強烈に思う。でも、もう一方では、同じことを自分が住む街でできるかどうか、しているかどうか、こそが実は大切な事なのではないかとふと思ったりするのである。旅の「本質」はふつう考えられているようなものとはかなり違うと、私の中の誰かが呟く。

*1:ジョナス・メカスの映像に比べれば、なんと「人工的」なつまらない動きであることよ、ということになるだろう。人間の視線は本来もっとずっと激しく揺れ細かく震えているはずなのだから。